「自己責任」という言葉や考え方が、いまや私たちの社会でも当たり前にいきかっている。ただ、しばしばそれはわが国の国民のなかに、いびつな形で定着しつつあるようにみえる。端的に言えば、繰り出される自己責任論の正当性について、正面からこだわっているのか、という疑問を持ってしまうのである。
例えば、他者から、とりわけ権力者から繰り出されるそれは、責任転嫁や切り捨ての論理として使われる。ところが、日本人の性向として、その責任転嫁や切り捨ての不当性を問う目線よりも、むしろ責任を被せられる結果に、まず怯えるようなところがある。
しかも、それが国や権力者から発せられた場合、それを社会が受け容れるという前提に立つことで、責任を問われないように努力や我慢をする多数派であろうとする。さらに、それを選択すると、今度はその「自己責任論」を自らも振りかざし、場合によっては、自分と同じような選択をしない他者の「自己責任」への無自覚を批判・攻撃することにもなる。つまりはあっさりと「自己責任」論の「しもべ」と化すのである。
もちろん、「しもべ」と化した彼らから見て、自分と同じようにしていない無自覚に見える他者の中には、そもそもこの「自己責任」論による責任転嫁に納得していない、その不当性を争いたい人も含まれているはずである。しかし、もはや「しもべ」にとっては、それは関係ない、取り合う余地のないものと位置付けられてしまっていたりする。
このわが国にみられる状況は、責任転嫁を意図してこれを繰り出す権力者には大変好都合である。多数が責任転嫁の不当性を問わずに「自己責任」論をのんでくれるのだから、それは当然だが、それに加え、納得していない少数派を「しもべ」と化した彼らが、いわば正当性を問わない責任転嫁の擁護者として、少数派を追い詰め、多数派形成に助力してくれるからである。
日本人にかつてからそういう性向があったかどうかについては、意見が分かれるところのようである。ただ、2000年代初頭の小泉改革以降の、新自由主義的改革・規制緩和が進むなかで、その風潮は拡大したという見方もある。新自由主義は福祉国家に背を向け、自己責任を多用する。規制緩和のもと、競争を促進し、敗者には「自己責任」があてがわれる。しかし、実態は国家による責任転嫁、切り捨てにほかならない。
司法改革にあっても、新自由主義的色彩が色濃く打ち出され、「事後規制から事後救済社会へ」といったことがスローガンになり、そのための法曹人口増員の必要性も強調された。しかし、責任転嫁と切り捨ての本質からすれば、自己責任論の延長に位置付けられた事後救済の現実味は相当に疑ってもよかった。少なくとも現時点で見る限り、これもまた、掲げた側に都合がいい形の責任転嫁と切り捨てが実現してしまっているようにみえる。
もう一つ、嫌な見方を付け加えると、この自己責任論の貫徹は、権力者による十分なヨミのもとに繰り出されているはずということだ。つまり、前記したような大衆の展開、多数派形成と少数者への圧力・取り込みが現実化するということ。これもまた、この社会で近年よく言われるようになった「同調圧力」が効果的に作用するという手ごたえを感じたうえで、これが掲げられているととれるのである。そして、それは「しもべ」化そのものが、権力によって試されているのかもしれない、という疑いを挟む余地も出てくるのである。
ワクチン接種、自粛警察、マスク着用――。コロナ禍のわが国での事象には、この「自己責任」論のいびつな形での定着が反映していたようにみえてしまう。諸外国に比べて、マスクを外さない国民の心理への様々な分析も聞かれる。もとより自分の頭で考えたうえでの医学的根拠の「選択」ではなく、「大丈夫」というお上のお墨付きがないと「外さない」という現実があるのだとすれば、それはやはり「自己責任」論の「しもべ」と化しているといえるのではないか。
5月8日からの新型コロナウイルスの感染症「5類」への変更が決まり、マスク着用も緩和の方向とされながら、結局「個人の判断」ということが付け加えられるという。しかも、これを報じる大新聞の論調には、マスクを外すことへの慎重論ともとれるものがみられる。これでは、あるいは「しもべ」は「しもべ」のままかもしれないし、そういうヨミもあるかもしれない。
しかし、私たちはもうそろそろ自分たちのスタンスを直視すべきではないだろうか。そこから始めなければ、あるいは延々に「責任」をとらない権力者のご都合主義の、そして徹底的に正当性が問われることのない、不当な「自己責任」の「しもべ」のままになってしまう。