内閣支持率というものに、これほど違和感を覚えたことはなかったように思う。下降フェーズに入っているとはいえ、依然として、高い高市内閣の支持率にである。発足後、ほとんど評価できる実績はなく、むしろ消費税減税や移民問題などでは、支持層の期待を裏切っていることは明らか。さらに「サナエトークン」や「中傷工作」、首相の経歴詐称問題で噴出した疑惑への高市首相の対応にも批判も強く出ているほか、皇室典範改正をはじめ法案をめぐる姿勢でもネットを中心に厳しい声にさらされている。
加点要素がほとんどあるように見えないのに、内閣支持率は60%前後という依然高い水準にある。前記ネット世論との乖離から、一部でフェイク説まで流れるほどである。一体、何が起きているのだろうか。
「高市人気」と括られるときに、並べられるのは、相変わらず「女性初」「リーダーシップなどへの期待」「代わりがいない」である。これらの贔屓目が、支持率を下支えしていることは、容易に想像がつく。しかも、世論調査の結果を前提にすれば、ここで見られるのは、本来、評価の書き換えを要求する情報を前に、かなりの国民が、それを書き換えの対象として認識しない現実である。
一見、失望、裏切りにつながる情報、つまりは増税・移民問題といった悲観材料を、そのままマイナス評価にしている大衆ばかりではなく、前記したような一次的な肯定評価を揺るがすほどの材料としてではなく、無関係なノイズのように処理されている、ということになるのである。
一度、下された「信頼できる」という評価を撤回する作業は、単に今の政策がダメというだけでは済まない、とみることはできる。例えば、「あの時、自分がリーダーシップはあると感じたこと自体が誤りだった」という、過去の自分の知覚・判断力への遡及的な疑問を伴うことになる。それだけに、個々のネガティブ情報を外部帰属で処理続けながら、評価の核を温存する傾向もある。まさに支持率の緩慢な下降は、この核を出来るだけ守る心理を読み取ることはできる。
しかも、「代わりがない」という認識の場合、放棄は純粋な喪失である。消極的にでも支持し続け、喪失を先送りにするという抵抗が少ない道が選ばれる可能性もある。
しがみつかせているものは、過去の判断と、撤退した先に何の受け皿もないという構造。それに、確信を失うこと自体への生理的な忌避感。しかし、そうした大衆は、現実を直視していない、避けているというよりは、ネットを見れば、否応なく飛び込んでくるネガティブ情報を認識したうえで、しがみつくのに都合が悪い部分だけを、多因果性という「正当」な論理で切り離し、都合の良い部分だけを単一原因に帰属させる、という非対称な評価基準をとっていることさえ見て取れるのである。
前回のコラムで、支持率を牽引しているように見える「高市人気」の構造には、政策の内容よりも、キャラクターへの同一化の目線があり、その向こうに、彼女への支持が、本質的結果的に何を支持することになっているかに覚醒していない有権者が相当数いる、と書いた (「高市政権と有権者のズレの正体」) 。
この支持者たちは、前記したようなご都合主義的な選択が、積み重なった先で政治家たちの何を許容し、何を可能にさせてしまうのかについて、残念ながらなかなか覚醒しないだろう。一つ一つの判断は、局所的な帳尻合わせに過ぎず、その総和が権力の延命という結果を生んでいることを、俯瞰してとらえる視点を、そもそも持ち合わせているようには見えないからである。
高市内閣の高い支持率への違和感の先にある支持者国民の実相は、自省なき統治者に、ご都合主義的に覚醒しないまま加担し続ける、悪しきもたれあいの姿にも見みえてくるのである。