司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 
 今回の「集団的自衛権」問題が、私たち日本国民に問いかけたのは、端的にいって、二つの「リアリティ」だ。一つは、いうまでもなく、「戦争」のリアリティ。こちらがどのような理屈をつけようとも、第三国間の紛争に武力介入して、一方を攻撃すれば、攻撃された国からすれば、日本はりっぱな「敵国」。「敵国」の軍隊も、国民も、国土も現実問題として攻撃対象になる。

 

 そして、それもさることながら、これまたどのような理由をつけようとも、武力介入をすれば、日本人が他国人を殺傷することになる。「国民の命と平和な暮らしを守るため」といわれれば、犯罪者に立ち向かう警察官のそれをイメージする人もいるかもしれないが、その他国人は犯罪者ではなく、やはり「国民の命と平和な暮らしを守るため」に戦地に赴き、あるいは駆り出された人たちかもしれない。その人間同士の殺傷は、意味合いが全く違う。

 

 「集団的自衛権」行使というテーマの前で、私たちはこの「戦争」の現実感をどこまで共有しているのか、という問題である。そして、わが国のこの問題をめぐる戦後の歴史をみれば、このリアリティが一つの抑止になってきたことは、誰の目にも明らかだ。先の大戦で味わった「戦争」の悲惨さのリアリティが、政治家のなかにも、国民のなかにも存在していた時代には、わが国は踏みとどまることができた。
 

 「でも、来年で敗戦から70年。記憶はいよいよ風化する。そして別の記憶が取って代わる。対米依存の『幸福な記憶』だ」(7月2日付け「朝日新聞」朝刊、片山杜秀・慶大教授「論理の暴走 戦前と同じだ」)

 
 もはや私たちの社会には、「戦争」のリアリティより、良好な日米関係のなかで維持される「幸福」のリアリティの方が上回りつつある。安倍晋三首相の主張も、ある意味、彼の台頭そのものも、そこを突いているように見える。

 

 そして、もう一つ、問われているのは「憲法」に対するリアリティだ。今、私たちが見ているのは、国民が権力を縛るための「憲法」を、一内閣の権力者が飛び越えようとする行為である。憲法解釈だ閣議決定だといっても、その基本を踏み外せば、憲法破壊、憲法違反というしかない。そのことを私たちは、きちっと見分けているのか、という問題である。

 

 それは、施行67年が経過しても、果たして日本国憲法の「憲法」としての本質が、どこまで国民に根付いているのかという問いかけにもつながる。権力を縛るというのとは、真逆の感覚をいつのまにか持ち、その存在を通して権力に対する厳しい目線を持つ姿勢を育んでこれなかった、その先に今回の事態があるとすれば、それはやはり私たちの問題として受けとめなければならない。

 

 安倍晋三という人物の台頭を許したのは、もちろん私たちの審判がもたらした勢力の勝利である。「集団的自衛権」賛成の勢力は、衆院で約8割、参院で6割超(前出「朝日」4面)という、私たちがもたらしてしまった状況が今日につながっている。大きな「論点」とされなかったという現実にしても、それを許した根のところには、私たちのこだわり、そしてこだわり切れるための「憲法」のリアリティから来る危機意識が決定的に欠けていた、という現実がないだろうか。

 

 もちろん、憲法を変えずして、憲法で守られてきた国を変えてしまう、今回の閣議決定という暴挙を、「プロセス」としてより強く問題視できるためにも、この「憲法」に対するリアリティが必要であることもいうまでもない。

 

 憲法を一般人よりもはるかに勉強してきたはずの、法曹のなかにも、こと現実的な危機感を持って「戦争」という言葉を使う同業者に対して、なかば嘲笑するような態度をとる人をこれまでにも沢山見てきた。あたかも「あるわけない戦争」の危機感をことさら煽っている、というように。ただ、彼らを含めた「あるわけない」という人々の「戦争」のリアリティは、現実とかけ離れた、いわば彼らの中だけに存在しなかったもの、といわなければならない。

 

 今こそ、私たちのなかの「憲法」と「戦争」のリアリティについて、見つめ直さなければ、いよいよ私たちの国は、取り返しのつかないところに突入してしまう――。そのことこそが、「集団的自衛権」行使閣議決定のリアリティというべきである。

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