司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐり、政治資金規正法違反(虚偽記入)罪で検察審査会の議決によって強制起訴された民主党の小沢一郎・民主党元代表に無罪判決が言い渡された。これを踏まえ、あるサイトでは、ネットユーザーに対し、「無罪判決に納得できますか」という問いかけをしている。

 国民が司法判断をどうみるか、という問いかけ自体は、もちろん意味がある。しかし、この問いかけは、いうまでもなく、ニュートラルではないという印象を受ける。「納得できますか」という設問自体は、「納得していない」という回答を引き出そうとしている感じを与えるからだ。ただ、そのことよりも、この設問から気になってくるのは、「納得」ということそのものだ。

 判決以降の大マスコミの論調にも、検察審査会を傷付けず、かつ、この判決で「納得」すべきではない、ということを喚起するものが目立つ。前者の部分ではストレートに判決の姿勢を尊重し、後者の「納得」という視点では、結論よりも小沢氏に対する判決の「不審視」の方を尊重しているようにみえる。

 しかし、この強制起訴で付きまとっているのは、民意ということに置き換えられる「納得」が司法に持ち込まれていること自体の危うさだ。今回の「改革」で、検察審査会の起訴議決には拘束力が与えられ、検察が不起訴と結論を出したものが、裁判に持ち込まれる形ができた。もちろん、これは証拠があるにもかかわらず、不当に不起訴にした場合が想定される。

 ただ、今回、強制起訴を見ても、現実は違う。見えてくるのは、「疑わしきは裁判に」という発想だ。つまり、検察による有罪を確信した起訴とは本質的に違い、市民が「納得」できるかどうかで決められるものになる。つまり、それは「起訴」自体の意味が大きく変わることを意味している。

 いうまでもなく、起訴されること自体、刑事被告人となる市民にとっては、大きな不利益である。社会的な意味での影響は、現実問題として計り知れないものがある。そこは、「納得」の前には二の次、三の次という話になる。

 検察の姿勢にも、危ういものがある。小沢氏の主任弁護人である弘中惇一郎弁護士は、今回ように検察内で起訴したい現場と慎重な姿勢の上層部の意見が分かれたまま、不起訴になった場合、現場の検察官が検察審を起訴に誘導する可能性があり、それはこの検察審制度が想定している不起訴のケースとは違う、としている。今回の件でも、検察審に対し、検察はなぜ、不起訴にしたのかを説明すべきなのに、逆に検察官は小沢氏の供述の虚偽性を説明しているということも指摘している(朝日新聞4月27日付け朝刊オピニオン面「争論」)。

 しかし、一方で、「それでもいじゃないか」といっているようにとれる論調を掲げている人が専門家の中にもいる。

 「強制起訴された被告が無罪になったら誰が責任を取るのか、という批判もありますが、これも『起訴=有罪』という従来の固定観念が前提あります。起訴は有罪無罪を決めるものではなく、裁判所での討論を求める申し立てです」
 「有罪を疑わせる証拠がある時、犯罪というパブリックな問題を裁判所というパブリックな場で討論してほしい、とが強制起訴です。ですから、無罪判決が出た時の責任は国民全体が負うべきなのです」
 「確かに刑事被告人となることは大きな負担です。だからといって、裁判所での討論そのものがなくてよいというのは乱暴です」(前出「争論」で四宮啓弁護士)

 前段ではとりあえず現実を度外視し、中段・後段は「有罪を疑わせる証拠がある時」とは言ってはいるが、要するに、「納得」がいかない疑わしい案件が、とりあえず裁判所に持ち込まれることを肯定している。裁判を「討論の場」とし、無罪判決は国民全体責任という描き方は、いかにも裁判員制度推進派の論客の発言だが、とても国民が了解している話とは思えない。

 検察審の強制起訴導入は、まさに「裁判員時代」の申し子のように、生まれてきたものだ。しかし、「説明責任」という言葉が、あたかも国民が「納得」しない以上、「果たされていない」ものとして、蔓延しているように見える社会状況のなかで、司法が本来の目的よりも、徐々に大衆の「納得」に絡めとられていくことの方に、危機感を覚える。



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