「改憲項目示さず民意を問う『免罪符』」。3月31日付け朝日新聞朝刊紙面に躍るこの見出しに、一瞬何のことかがつかめず、奇妙な気持ちに陥った。自民改憲草案に関するものであることは分かったが、なぜ、「免罪符」になるのか。改憲項目を示さず民意を問うなどということに、「免罪府」などありようがないと率直に思ったからだ。見出しは、記事でもっともいわんとしていることの凝縮であると同時に、読者に本編への興味をそそらせる役割があるが、その意味では、この見出しは効果的といえるかもしれない。
驚くべきことがいろいろ書かれている。天皇元首、国防軍、緊急事態条項、基本的人権の永久不可侵条項削除、国民への憲法尊重義務。現行憲法をほぼ全面的に書き換える草案の右寄りな国家観に、自民内部に戸惑いがあることもさることながら、草案の中身を熟知している議員は「ごく少数」。しかも、安倍晋三首相自身、起草時の議論にほとんどかかわっておらず、「特別な思い入れはない」(首相側近)。
その首相が、なぜ、この草案を前面に打ち出しているのか。その疑問への回答にあてがわれた言葉が「免罪符」なのだ。参院選前に改憲項目を絞ると支持層からの不満、野党の攻撃にさらされる。だから、項目を示したくない。何をどう変えるかを示さず選挙で改憲を訴える無責任を、「草案を示している」ということで免れようとしている。故に草案は「ある種の『免罪符』として機能している」――。
とんでもない話である。要するに、わが国の首相は、極めて邪道な方法で、憲法改正への突破口を作ろうとしている、としか読めない。これが事実であるとすれば、そもそもこれが通用するとみる安倍首相の認識が根本的に怖ろしい。「お試し改憲」という批判に、お得意の「レッテル貼り」という言葉で反論した話も出てくるが、草案を示すことで支持層の多様な期待感を保ち、一方で絞らないことで、反対派との論争を極力回避しようとする姿勢。このレッテルよりも、もっと不謹慎で真摯さにかける首相の姿勢が透けていないか。
とにかく憲法改正があり、そこへの突破という彼の目標設定があり、それが実現すればいい、というのは、あるいは彼の「信念」や「情熱」のなかでは、一本道でつながっているのかもしれないが、あなたが向き合おうとしているのが、民主主義国家の最高法規であることを分かっているのか、と問い質したくなる。その記事が伝える彼の姿勢は軽く、その重みに対する慎重さを読みとることができない。3年3カ月の現職への君臨が、もはや完全に彼を勘違いさせている、と言いたくなる。
ただ、そう解釈したうえでも、この「免罪符」という言葉への決定的な違和感が残る。「許す」のは彼でも彼の取り巻きでも、草案の中身を熟知しないまま、自民党に寄り添っている議員たちでもない。こうした形で進められようとしている改憲を許すも許さないのは、私たち国民である。それを分かっていないのか、分かったうえで、とてつもなく私たちがなめられているのか――。「免罪符」など決して認めてはならない。