検察人事への不当な介入が波紋を呼んでいる。官邸に近いとされる東京高検検事長の63歳定年について、それを定めた検察庁法22条の規定を越えて半年間延長することを急き閣議決定した問題である。特別法である検察庁法の定年規定がありながら、一般法である国家公務員法を適用するというもので、しかも同法の定年延長規定は検察官に適用されないとした、政府の従来解釈の変更まで安倍内閣は明言した。
なぜ、そこまでするのか。国会で森雅子法相は検事長の職務上の理由、つまりは規定通り今月退官させることによって重大な支障が生じるためという趣旨を答弁しているが、ここまでのことをする、その具体的内容がいかなるものであるかの説明は国民に一切なされていない。しかし、今年7月末で満2年を迎える現検事総長の勇退後、同検事長を後任に起用することが目的との観測が流れている。当然、同検事長と官邸とのつながりから、政権の意向が取り沙汰されてもいる。
前記法の適用との関係で違法の疑いが識者からも指摘されている。これに対し、森法相の説明は、検察庁法の規定には「定年延長」の規定がないから、それについては国家公務員法を適用する、という理屈である。しかし、検察庁法に定年の年齢だけあり、延長の規定がないのは、当然、検察官の定年延長はできない、つまりは想定していないと解釈できる。そして、そもそも「検察官同一の原則」から、どうしても検事長の定年を延長しなければならないという事態そのものが、検察庁という組織の本来の姿では想定できないということもいわれている(「郷原信郎が斬る」)
こう見てくれば、特別法で定年延長規定を設けていない検察人事に関する法の建てつけは、むしろ今回のような介入そのものを想定していない、あるいは検察の独立性からそれを遠ざける形になっているようにとれる。
しかし、ここで問われるのは、いうまでもなく、こうした安倍政権の適法性に対する理解や感性の問題にとどまらない。やはり、無視できないのは国民に対する姿勢と感性の方である。有り体に言えば、これまでも、こうした政権の都合、私物化との批判が当然出る措置を正面突破で繰り出してきた、この政権の自信と世論に対する途方もない侮りの問題である。
今回の異例の措置が、今回のような社会に波紋を呼ぶことも、国会で追及されることも、安倍政権が全く想定していなかったとは考えられない。むしろ私たちは、それを百も承知のうえで、はじめから押し通せるとみている政権の姿勢に、その本質を見なければならない。もっといえば、森友・加計問題や、議員の不祥事など安倍政権下の事件にかかわる、数々の「不起訴」、集団的自衛権行使での法的安定性を軽視した解釈変更などと、今回の検事長定年延長をめぐる思惑や措置が、一直線につなげられる体質的な批判が想定できても、何でもないという自信と傲慢さを見なければいけないはずなのである。
未だに崩れない国民の内閣支持率がそれを許しているという現実は無視できない。こうした自信と傲慢を繰り出せないほどの脅威を、われわれがこの政権にずっと与えてこなかった事実は否定できない。支持率がもし危険水域に近付いていたら、いまごろこの政権のあからさまなご都合主義的かつ傲慢な政策を、どれだけやめさせられていたかを想像してしまう。
政治主導がいつしか官邸主導の官僚の人事支配を通した政治の私物化に。そのことも、もはや多くの国民も分かっているはずである。しかし、今、追及される問題を抱えた政権が、ついに堂々司法の一角をご都合主義的に、説明を果たすこともなく、堂々と支配しようとしている事態に、まず、私たちがもっと危機感を持つべきなのである。そして、こうした政権の実態があればこそ、およそこの政権での憲法改正の議論に乗っかることの危険性と、ゆめゆめそれに乗っかってはならないことを、今、認識すべきなのである。