「消極的」といわれる姿勢を、「謙抑的」と説明してきた最高裁の姿勢に「異変」が生じているという見方が出てきている。昨年の衆院に引き続き、参院の「一票の格差」についても、「違憲状態」と断じ、これまでになく、踏み込んでいるという評価が出されているのだ。
10月27日付け朝日新聞朝刊、オピニオン面「耕論」は、「ものを言い始めた最高裁」というタイトルで、この問題にスポットを当て、泉徳治・元最高裁判事と、御厨貴氏・放送大学教授を登場させ、この「異変」の背景を語らせている。
泉・元判事の見方は、いわば正面から見た意見である。つまり、これまでも最高裁は繰り返し一票の格差是正を求めてきたにもかかわらず、国会は是正を怠ってきた。「甘い言い方では国会が動かないことは実証済み」。最高裁が選挙について「違憲」と断じるのを回避する傾向は、違憲立法審査権が与えられていることへの認識不足であり、こと民主主義システムが機能しているかどうかに関するときは、裁判所は積極的でなければならない。最高裁が変わってきたのは、今の日本の経済的な悪化状態のなかで「国民の意思が正確に反映される国会でないと日本の針路が正しく決められない」という認識が最高裁も共有され始めた――、と。
彼の立場は、いわばプロとしての責任を果たしていなかった最高裁の責任についても認めながら、彼らの認識に変化があったのだ、というものだ。
一方、御厨教授は、やや違う切り口の分析をしている。国会の踏み込んだメッセージは、もはや政治論なのだと。自民党政権下、最高裁は基本的にその枠内に収まる姿勢を取り、違憲立法審査権は行使してこなかった。砂川事件判決での「統治行為論」採用はその象徴。ところが自民党も行政も劣化するなかで、政治に寄り添うだけの手法が通用しなくなった。司法は逆に存在感を増し、その延長に今回の判決があった、と。
そして、同教授は、次のような、非常に重要な指摘をしている。
「小泉政治以来の本音重視、権威やプロはいらないという社会のムードが背景にあります。そのせいか判事たちは今回、かなり自由にモノを言っている。おそらく政治や行政のくびきから逃れた解放感があるのでしょう。その結果が国民の常識、世論に近い判決になった。かつてのプロの世界とは明らかに異なる点でアマチュアリズムに基づくといえます」
見方によっては途中まで、実は両者は同じことを言っているのではないかとも思えなくはない。違憲立法審査権を与えられていることの認識不足が、まさに政治と行政のくびきよる、そのべったりの関係のなかにあっての、プロにあるまじき姿だったと。そうだとすれば、この「異変」は、裁判所がある意味、独立する方向で、消極主義を改めるものとして、本来、歓迎すべきことで終わっていいのかもしれない。少なくとも、「一票の格差」是正というテーマについては、大きな成果につながるものとしてみることができる。
ただ、同教授が泉・元判事と明らかに違うととれるとらえ方は、これを司法、立法、行政のあらゆる分野に発生しているプロの衰退のなかで見ていることだ。その結果が、国民世論への傾斜なのだというのである。立法、行政が劣化するなかで、どう自立するかの判断に迫られた裁判所が、国民に寄り添い世論に近い判断をするという、今後の最高裁・司法の在り方にかかわる重要な選択を、竹崎博允・最高裁長官が悩んだ末にしたという見方をしているのだ。
同教授の見方からすれば、最高裁の国民世論の傾斜は、これからますます進むという。ただ、これを手放しに喜ぶ気になれなくさせるのは、逆にこれがプロの視点に基づくものではなく、情勢論が生み出した政策的な選択のようにも見えるからである。政治・行政のくびきにつながれていることが、司法のあるべき姿でないと同時に、常に国民世論に傾斜し、あるいは迎合することも司法のあるべき姿ではないはずだ。
改めていうのも、おかしな話だが、むしろ、司法こそは、プロの劣化が許されない世界であるという前提に、社会が立つところから始めるべきと思えてならないのである。