自民党の歴史的圧勝といわれる結果に終わった今月の総選挙。今、この結果と現象に「推し活選挙」という言葉があてがわれている。総選挙を政策ではなく、「私を選ぶか否か」を問いかけて、いわば人気投票にすり替えた高市首相の「戦略」が功を奏したという見方によるものだ。
しかし、いうまでもなくこの言葉の主体は有権者であり、あくまで有権者が選んだ投票行動を意味するものだ。つまり、多くの国民が、積極的に「アイドル」としての高市首相を選ぶために、問題になった裏金議員を免罪し、旧統一教会との関係を問うこともなく、ましてや個々の政治家の主張や政策実現への期待度に見向きもせず、大量の国会議員を当選させたという、にわかには信じがたい現実を指している。
深刻な現実が、この言葉から次々に浮かんできてしまう。高市早苗という「何かやってくれる」「変えてくれそう」というキャラクター、あるいは偶像への没入感、敵対勢力を叩く爽快感を伴った、その中身より戦っている人間への共感、その裏返しとして攻撃されている、孤立しかねない存在へのシンパシー。
しかし、言うまでもなく、それが仮に「推し活」としては「正しい応援」であり、通用するとしても、これは国政選挙である。議会制民主主義に照らして、これがどれだけ異常で問題があることかを問わなければならない。まずは、政策から逆算されていないことの意味である。前記した「人気投票」の多くの有権者の心理を支えたのは、具体的な政策への期待ではない。
いや、むしろ恐ろしいのは、それもまた高市首相側の「戦略」として透けていることだ。いまだ政権としての政策実績も少なく、そもそも判断材料が少ない首相は、理由を付けているものの党首討論を欠席し、積極的に判断材料を提示するわけではなく、逆に初めから「人気投票」シフトで臨んでいるようにもみえてしまう。
そして、もっと嫌な見方をすれば、それは政策で勝負するよりも、むしろ選挙結果につながるとうヨミがあったのではないか、ということだ。つまりは、この国の議会制民主主義について、国民の多くが、政策によって代表者を選ぶ形で支えるのを放棄するということを想定したうえでの勝算を、首相がむしろ積極的に持っていたということになる。
カール・マルクスの言った「商品のフェティシズム」を当てはめたくなる。「商品」ではないが、選挙という儀式は行われても、政策という「使用価値」ではなく、リーダーの「ブランド」で有権者が選択してしまう。この世界では、政治家は政策を掲げて有権者国民を説得する必要はなく、ただ、「演出」だけでよくなる。
これは、日本の議会制民主主義に対する、深刻な「手抜き」に市民権を与えてしまったような趣がある。政治家側は政策で有権者国民を納得させる労力、有権者国民側はそれを真剣に検証したうえで選択する労力。それらを回避できる「熱狂」の方が、コスパがよい、と。政治への不信からくる「変わらない」「分からない」という意識も手伝い、これに社会が大きく傾斜すれば、どうなるのか。
気が付けば、日本の政治からは、言葉も論理も消え、あるのは情緒・お気持ちと、動員だけというポピュリズムが完成しているのかもしれない。
前回の当欄で、今回の選挙で首相をはじめとする政治家への「白紙委任」が問われている危機的状況について書いた(「高市『解散』」が投げかけた『白紙委任』」http://shihouwatch.com/archives/9718。だが、蓋を開ければ、現実は多数の有権者には、この危機感が伝わらなかったようにみえる。今、「白紙委任」ではないという意識であったとしても、残念ながら「白紙委任」の体制は、有権者国民によって積極的に選択されてしまった。そして、政治家たちが、とにかく自らの権力を支えるための選挙の狙いと結果を、有権者国民は許してしまった。
思えば、「解散権の濫用」として高市首相の「大義なき解散」をもっともっと問題視できないところから、実は「推し活選挙」は始まっていた。ものすごい国民への政治的リーダーたちの侮りと、その思惑にまんまと乗せられていることに、この国の多くの有権者たちが、どこかで覚醒しなければならないということと、そのためにこの社会は今、何ができるのかを真剣に始めなければならないということへの強い危機感を覚える。