司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 
 〈この事件で裁かれるべきもの〉

 この刑事事件は、天災が大きく関係する巨大危険装置の事故に関するものである。この事件を考察する上で見逃してならないことは、その裁判の対象は、事故原因の特定、被害の内容、原発の安全性という歴史的事実の確定或いは科学的検証ではなく、公訴事実記載の訴因の存否とその法律的評価、そして起訴された自然人たる被告人だということである。


 確かに、被告人らは、この危険装置を設置し稼働し、それによって利益を受けていた団体の最高の経営責任者たちであり、その責任者として最高度の安全確保の注意義務を有することは間違いない。しかし、人間の能力には限界があり、本件が認定された状況において仮にこの3・11の段階で被告人ら以外の者が被告人らと同じ立場にあったら果たして今回の重大な結果を招じさせる事態を避けることができたかと問うたときに、明確に可能だったと答え得る状況ではなかったのではないかと思われる。

 原発の設置、稼働は、その有する潜在的危険装置性によって、原子力基本法(昭和30年法律第186号)、核原料物質、核燃料物質及び原子炉等の規制に関する法律(略称原子炉等規制法、昭和32年法律第166号)、原子力災害対策特別措置法(平成11年法律第156号)、原子力損害の賠償に関する法律(昭和36年法律第147号)等の法整備がなされていた。原子力基本法第1条は、「この法律は、原子力の研究、開発及び利用(以下「原子力利用」という。)を推進することによって、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もって人類社会の福祉と国民生活の水準向上に寄与することを目的とする。」と定めている。

 原発の設置、稼働は民間企業に委ねられているが、その高い公共性の故に電力会社は電気事業法(18条)により「正当な理由がなければその供給区域における一般の需要(……)に応ずる電気の供給を拒んではならない」とされ、また、同法19条は、料金その他の供給条件は経産省令の定めによって経産大臣の認可に基づくこととされ、そこでは競争原理が殆ど働くことはなく、いわゆる総括原価方式と呼ばれる料金設定が認められるなど準国営企業とも言えるものである。

 本件の被告人らについては、本件事故時点で関係法令に違反し安全配慮義務を尽くさなかったとか、監督官庁からの原子炉運転停止等の明確な指示が出されていたのにこれに従わなかったなどの特段の違反があったとの公訴事実ではなかった解されるところからすれば、これら被告人らの刑事責任を問うことは極めて困難なことと考えられる。


 〈朝日「社説」への疑問〉

 この無罪判決については、告訴人はもとより、学者、弁護士、評論家、さらに新聞等のメディアは、批判というより非難に近い論調を展開している。

 朝日新聞2019.9.20の社説には、「未曾有の大災害を引き起こしながら、しかるべき立場にあった者が誰一人として責任を問われない」との一文がある。その主張が判決批判の一論拠とすれば、それは大災害が発生したら誰かが人身御供にならなければならないという前近代的論理と言えるものであり疑問である。

 問題は、3・11の置かれた状況の中で被告人らは本件事故を回避する措置を講じ得たかということであり、東京地裁の判決はその訴因に焦点を絞って判断していると解されるものである。

 判決は理由中で、「当時の社会通念の反映であるはずの法令上の規制やそれを受けた国の方針の審査基準などの在り方は絶対的安全性の確保までを前提にしていなかったと見ざるを得ない」との部分(原文はそのような表現かどうかは分からないが)にしても、前述の原子力災害対策特別措置法の制定などからすれば、原発について、国民の多数の意見によってそのような事故の発生の可能性を前提とする法整備をしていることからすれば、全く事故を起こすことのないものとの前提で国家がその存在を認めているものではないという意味でそのような表現も有り得るかとは思う。

 しかし、「絶対的安全性の確保までを前提にしていなかった」と表現することは、原発は安全でなくても良いという前提に立っていたかのように誤解される恐れがある点で適切ではなかったのではないかと思われる。

 いずれにしても、私としては、このような無罪判決をすれば世間からの風当たりは強いことを承知しながら、裁判所は刑事事件としては正当な判断をしたのではないかと思っている。



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