司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 11月1日からカンボジア5泊6日の旅をした。渉外司法書士協会の毎年の国際視察、見物企画の平成23年版であったが、カンボジアと聞けばまず思い浮かぶのはポルポト共産主義の理想と悲惨な結末のことだ。ポルポト政権下で、国民の約1割、150万人が、飢餓や病気、処刑で死んだと言われている。正確な犠牲者数は未だに不明である。

 そこで、長寿社会シリーズは少しお休みして、カンボジア旅行で思ったこと、開発途上国における知的エリート主義と共産主義、共産党との密接な結びつきについて書いてみたい。

 「開発途上国における知的エリート主義と共産主義、共産党との密接な結びつき」は、大正デモクラシーから1970年代までの、岩波文化、マルクス主義、進歩的知識人、前衛党としての共産党からなっていた貧困農業国時代の日本の知識人文化状況とも、相似とまでは言わないものの似ていると言えば似ているのである。

 1960年代はアジア、アフリカの時代と言われ、1970年代前半は、「インドシナ共産主義の英雄時代であった」(フィリップ・ショート 『ポルポト ある悪夢の歴史』)。1970年当時、中国は文化大革命のさなかにあった。その頃、有楽町の映画館で、岩波映画社のドキュメンタリー映画「文化大革命」を見て感動したことを思い出した。ロシア共産主義にも日本の左翼にもすっかり幻滅絶望し、カモメのジョナサンを読み、アルビントフラーの「未来の衝撃」を読んでいた私は、毛沢東主席の徹底した平等主義に新鮮な衝撃を受けていた。

 1970~80年代は、ピータードラッカー氏に21世紀は日本の世紀と言われ、アロガンスジャパニーズと世界に悪評されるほどに、日本人が舞い上がっていた時代だったから、あの貧乏な中国の文化大革命と紅衛兵達の実権派知識人への容赦なき反乱告発のエネルギーを見ると、そこに思わずロマンを感じてしまったのであった。

 カンボジアでは1970年にロンノル将軍がクーデターを起こし、シアヌーク王子から権力を奪取して反共政権を打ちたてた。アメリカはこの反共腐敗政権を支援した。ポルポトはまだ、1971年にこの反共政権に対する「革命運動のもとに結集した『愛国的知識人』約90人の、一人でしかなかった」(フィリップ・ショート 『ポルポト ある悪夢の歴史』)。ポルポト、本名「サロト・サル」の名前を知る人はいなかった。

 4年後、1975年4月17日、クメールルージュは、プノンペンを陥落し権力を手中にした。「4月17日は『2000年にわたるカンボジアの歴史が終わり』カンボジア人が『アンコール朝よりも輝かしい』将来を築き始めた日とされた。・・『既存のどんなモデルをも参照にしない』社会主義を構築するとイエン・サリはインタビューアーに語った(フィリップ・ショート 『ポルポト ある悪夢の歴史』白水社)。

 勝利後、クメールルージュの極秘の指導者労働会議が開かれ、10日間の議論の末に、指導部は「完全な共産主義を、妥協一切なしに一気に導入することを決断した」(フィリップ・ショート 上掲書 21P)。そしてこのときから、初夏にかけて、都市からの移住者の行列が全国をめぐった。プノンペンは無人の街となった。

 そして3年、この3年間に約150万人の人民が、「完全な共産主義を、妥協一切なしに一気に導入する」というポルポトの理想を実現するための犠牲となった。犠牲者のうち大半は病死、過労死、餓死だった。

 武者小路実篤の美しき村の実験の失敗は無邪気な失敗で終わったが、現実を実証的に見ずに、理念を意欲だけで実現しようとしても失敗する、この点においては共通点がある。しまいには狂気となった赤軍派の浅間山荘事件にも共通点を感じる。

 要するに実人生から遊離した観念の束は、人間を破滅させるばかりか、人間社会を破滅させてしまうのである。遊離した観念の束、紙に書かれた言葉の山、それは時に逆に人間を支配する。法律という文字の世界も危険がいっぱいということかもしれない。   



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