司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 〈独自の制度観披歴と推進の旗振り〉

 

 私は以前、裁判員制度に関する2011年11月16日最高裁大法廷判決を取り上げ、そこには上告趣意の捏造があり、その判断には裁判員制度合憲判決としての判例価値はないと述べた(「裁判員制度はなぜ続く」花伝社、102、118頁)。

 

 最高裁に対する批判の多くは、これまで事務総局が先導する形で行われる人事差別、給与差別、判決内容、思想などによる差別が主であり、それに対する批判が主たるものであったけれども(前掲木佐396頁、瀬木比呂志「絶望の裁判所」、森光「司法権力の内幕」等)、この大法廷判決はそのような司法行政に絡むものではない。判決そのものが、上告人弁護人が上告趣意とはしないと態々断っている点を上告趣意と捉え、上告趣意とされたものについて故意か過失かは分からないけれども判断を遺脱するという判決内容であったということ、しかも求められてもいないのに独自の裁判員制度観を披瀝し制度推進の旗振り役を果たすという政治的行為を行ったということである。

 

 判例時報は2312号、2313号で、元東京高裁判事大久保太郎氏による私とほぼ同旨の論文を掲載したけれども、マスコミは沈黙を守っている。

 

 下級審が仮にかかる判決をすれば、上級審での是正の道も残されるが、最高裁判所大法廷判決のこのような信じられない作為的とも評し得る判断に対しては、国民が声を上げる以外に是正の道はない。

 

 裁判官の独立とは、ヴァイツゼッカー氏が述べる「政治から独立の部門」であること、「強者に対する弱者の本来的保護のための法(権利)の番人であること」、「種々の見解や解決を問いただし、内容を欠かさぬ精神的、開放性から得られるもの」である。つまり、自己の判断について、権力におもねてはいないか、弱者の立場を理解しその心に寄り添っているか、独立を独善と見誤ってはいないかを、常に自問自答することである。

 
 

 〈書き留められるべき歴史的事実〉

 
 私は、以前他1名の弁護士と一緒に、裁判員の職務を担当したことによって急性ストレス障害になった女性Aさんを原告とする福島地裁での国家賠償請求事件を担当し、その事件で下された判決を批判した(前掲「裁判員制度はなぜ続く」60頁以下)。その批判の中で、私は、「一言でこの判決を評すれば、憲法76条3項に定める裁判官の独立を放棄した、余りにも国策追従、国民の基本的人権無視の判決ということに尽きる。」と評した(同著72頁)。

 

 この福島地裁判決に対する私の評価は今も変わるものではないが、その判決は、内容はともかく原告の主張は主張として正しく捉えていることは確かである。しかし、前掲の大法廷判決は、主張もしないものを主張したものとし、主張したものをその内容を歪めて捉えて判断し、さらに国策に関する意見を開陳した。

 

 私は以前「この大法廷判決の持つ危険性については、マスコミはいくら大々的に取り上げても取り上げ過ぎることはないと思っている」と書いた(同著117頁)。森友・加計問題や自衛隊派遣日報問題は、連日、国会審議やマスコミで取り上げられている。これらの問題は、政治家や行政官の使命はどこに吹き飛んでしまったのかという、確かに我が国の民主主義の根幹に関わる大問題だから、このようにマスコミが連日取り上げ、国会でも議論されることは当然である。

 

 しかし、最高裁が政治的意見を述べ、且つ国民を騙す判決をすれば、それは国権の一翼を担う機関の行為としては有るまじき行為であるから、いくら非難してもしきれるものではないはずである。もちろん、その判決がなされたのは今から6年半前の出来事であれば、今この問題を取り上げることのニュースバリューのないことは良く分かる。そうとは分かっていても割り切れないのは、今、森友・加計問題等をここまで重要な問題と捉えるのであれば、最高裁の前記の政治的行為、欺罔行為が厳然と存在したという歴史的事実は、何らかの形で広く書き留められて然るべきではないかと思う。



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