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 〈判決の予想された結論〉

 最高裁判所大法廷が昨年11月16日に言い渡した裁判員制度合憲判決(以下「判決」という)については、新潟大学大学院・西野喜一教授が既に的確且つ網羅的に強烈な批判を展開しており(新潟大学紀要「法政理論」44巻2・3号)、今更私の出る幕ではないとは思うが、弁護士的感覚から、その判決について、私なりに疑問に思うところがあるので、ここに西野教授の判決批判と重複するところがあることを承知のうえで、若干述べさせて頂く。

 判決の結論自体は、仮に最高裁が裁判員制度について憲法判断をすることになればなされるであろうと予想されたものであり、何ら驚くには当たらない。15人の裁判官全員一致の判決、しかも個別意見一切なしは、多少は異見を述べる人もいるのではないかとの期待を抱かなかったわけではなかったのでいささかがっかりした。

 判決を要約すれば、憲法には国民の司法参加を認める旨の規定は置かれていないが、憲法制定の経緯などを考慮すれば、国民の司法参加は憲法の許容するところであって、結局は国民の司法参加に係る制度の合憲性は具体的に設けられた制度が、適正な刑事裁判を実現するめの諸原則に抵触するか否かによって決せられるべきであり、憲法はその内容を立法政策に委ねていると解されるとの前提のもとに、裁判員法による裁判員制度の具体的内容は刑事裁判に関する様々な憲法上の要請に適合した「裁判所」といい得るものであり、また裁判官が時に自らの意見と異なる結論に従わざるを得ないとしてもそれは合憲の法律に拘束される結果であって憲法76条3項の趣旨には反しない、また裁判員となることは「苦役」であるということは必ずしも適切でない、従って裁判員制度は違憲ではないというものである。

 〈巧妙に隠された意図〉

 この判決の論理構成には、明らかな誤りというより合憲の結論に導くための作為が感じられる。

  上告理由は、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」いわゆる裁判員法の定める司法への具体的国民参加制度(「裁判員制度」という)の違憲性を論じるものであって、一般的に国民の司法参加が違憲だと言っているのでも、その制度が刑事裁判に関する憲法上の要請に適合しているか否かを論じているものでもない。

 判決は、冒頭において「まず、国民の司法参加が一般に憲法上禁じられているか否かについて検討する。」と述べ、憲法に明文の規定がないことを取り上げ、次いで「憲法上、刑事裁判に国民の司法参加が許容されているか否か」と論じ、急に「刑事裁判」に限定した理論を展開する。

 しかし国民の司法参加の憲法許容性を論ずるのであれば、ことさらに刑事裁判に限定して論ずべき理由はない。自ら提起した問題が「国民の司法参加が一般に憲法上禁じられているか否か」であって、「国民の「刑事裁判」への参加が一般に憲法上禁じられているか否か」ではないことからすれば、途中からその問題提起を「刑事裁判」に限定するについては、説得力ある説明が必要であろう。

 合衆国憲法修正第7は民事陪審の保障を定める。立法例ではこのように民事陪審を定めることも有り得ることからすれば、本来は「司法という国家の権力行為と国民の参加」という命題について根本的に論じることが筋であろう。

 判決自体、そのような根本的問題を最初に提起しながら、突然に刑事裁判に限定したことの理由は何か。さりげない記述ではあるが、私はそこにこの判決の重要な意図が巧妙に隠されていると考える。

 その刑事裁判限定の理由は、裁判員制度が刑事裁判においてのみ採用されているからということではなく、その結論である「国民の司法参加に係る合憲性は、具体的に設けられた制度が適正な刑事裁判を実現するための諸原則に抵触するか否かによって決せられるべきものである」との記述に示されているように、その制度設計として適正な刑事裁判を実現できるものであれば合憲であるという矮小化された単純な結論を導くために敢えて採用された論法であると考えられるからである。

 国民の司法参加という本来は大きいテーマを真っ向から論ずれば、勢いいろいろの制度設計に応じた憲法判断を要するとの思惑があったのではないかと推察される。



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