〈認められるべき国民の裁判批判〉
国民は憲法の手続きに従って司法を裁判官に委ねた。委ねたら委ねっぱなしでよいのか。ここが正に司法への国民参加といわれるものの論じられるべき場面である。
司法権の独立は、その判断をすることについての独立であって、そのなされた判断についての批判を封じることではない。職業裁判官各人にとって危惧されることは、人間であれば、長期間、立法権、行政権と対等な権力行使をしていることによって、いつしか権威を笠に着る感覚が身につく危険があることである。
当事者ではない立法機関、行政機関がその個々の判断を批判し介入することは許さるべきではないが、国民による裁判、裁判所批判はいかなる段階であっても認められるべきであり、裁判官、裁判所はその声に謙虚に耳を傾け、襟を正してその職務を行うべきであろう。
そして何よりも裁判官は、孤高に陥らず、権威ぶるようなことは避け、市民と交わり、市民集会等にも積極的に出て討議に参加することも重要であろう。
現在はその選任に透明性を欠く調停委員、司法委員、参与員、専門委員についても、市民から公募すること、司法委員、参与員制を民事、家事のみではなく刑事にも拡充すること、その人数の複数化も視野に入れることなどの市民の司法への参加の形態を工夫すること、ノルウェーで採用されているという法廷監視人制のようなもの、或いはアメリカで行われているというアミカス・キュリエ(amicus curiae「裁判所の友」の意)(森川金寿「裁判の民主的コントロール」兼子博士還暦記念(上)265頁、棚瀬孝雄「訴訟動員と司法参加」241頁)のようなものを採用することも考えられるであろう。
〈求められる裁判所の開放〉
また、裁判所を市民に対し開放的なものとするために、定期的に長官・所長・支部長室に市民を招じ入れ、長官・所長・裁判官らが親しく市民と裁判について語り合うこと、裁判官の転勤は必要最少限度にとどめること、原則として昇給制度をなくすこと、判検交流は御法度にすること、司法行政は本来の形である裁判官会議の議によること、その裁判官会議は強大な規則制定権を有する最高裁のそれを含め原則公開とすること、裁判所を開放しコンサート等を開催すること等の施策の実行により、裁判員法1条記載の目的の実現は裁判員制度実施などという百年河清を待つようなものよりもはるかに効果的であると考える。
なお、最高裁判所は、先に憲法の解釈上「評決権を持たない参審制」を司法制度改革審議会に意見として提出し、のちに撤回したけれども、その意見の提出や撤回についての最高裁判所裁判官会議の議事録は、公開されて然るべきであろう。
さらに多くの人が述べているように、幼少時から正しい歴史の教育と共に憲法を含めた法教育をなし、そこに裁判官や弁護士が参加することも望ましいのではなかろうか。また、最近良く見られる法廷傍聴の誘いも、裁判の公開の実を上げるためにも良いことと考える。
国民の司法参加というのは、そのような形、いわば司法の市民化が望ましく、多くの国民の基本的人権を侵害する虞が大であり、且つ被告人の利益を害する今回の裁判員制度などは即刻廃止さるべきである。