〈参加容認と負担をめぐる論理の飛躍〉
仮に、憲法が一般的に国民の司法参加を許容していると解し得るものとして、その参加形態に、国民に負担とならない参加もあり得ることは、現在の調停委員、司法委員、参与員等の存在を見れば明らかである。参加が認められるから負担も容認しているというのは論理の飛躍であり、何ら説得力はない。負担という表現は、国民に無理強いするということである。司法参加が認められているから、国民に無理強いをしても良いなどとは決してならない。
無理強いも許容されるというのであれば、憲法上他にこれを正当化する根拠が必要である。しかし、それはない。むしろ、憲法13条、15条、18条、19条、20条、22条など、その無理強いを制限する規定、国民の負担を禁止する規定のオンパレードがあるだけである。それは当然のことである。前述のとおり、国民は、その一人ひとりが人間存在の価値を最大限に尊重されるべきものとして、この群れの中に存在するものであることが憲法の根本理念と定められているからである。
福島地裁の判決、その上訴審の判決は、個人の尊厳、人間尊重の精神を欠き余りにも国民の基本的人権を蔑ろにしている。国民を無視し国を立てる、近代立憲主義憲法が最も嫌悪した判断をこの判決はしたということである。
この福島地裁判決がなされたのは4年程前のことである。その判決後、裁判所は、心身の健康に自信のない人は辞退してよいですよと言い、裁判中におかしくなりそうなら辞めさせて下さいと言って下さいと言い出し、そのために裁判員が途中辞任を申し立てて裁判が継続できない事態も時折見受けられるようになった。
先日発行された「ポピュリズムと司法の役割」(斎藤文男著、花伝社)で著者は、「三権分立と法の支配の形骸化をファッショ化の指標にしたい」とし、「権力分立による抑制・均衡が現に機能しているか。司法が時の政権に抗い法の支配を堅持しているか。司法が多数の支配に屈していないか。その結果、個人の権利・自由がどこまでまもられているか」をファッショ化の判断基準にすると説き、「現代の政治体制はファシズムではないがポピュリズム化していることは確かだ、そのポピュリズムがファッショ化への契機をはらんでいることは否定できない」とし、結論として「司法の現状は危機的です。司法にはポピュリズム政治を抑止すべき役割をとうてい期待できない」と結論付ける。
先の2011年11月16日最高裁大法廷判決、前述の福島地裁判決、その上訴審判決は、その危機を見事に描いた標本のようなものである。