司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 〈事実認定の公式・理論〉

 

 本件判決で言っていることは、本来は至極尤もなことであって、裁判における証拠による事実認定とは国民が日常生活で行っているような事実の認識過程、つまり目の前にあるものが何かを言い当てるようなものではなく、過去に起きた事実について「証拠によってその有無を判断する過程」だということである。要するに上記のような資格要件該当の人からくじで選ばれる裁判員に正しい事実認定を期待することは無理だということである。

 

 四宮啓教授は嘗てこのようなことを語っていた。「国民が裁判員になることは原則として義務であるため、『招かれざる負担』と受け止める向きもある。しかし、考えてみたいのは、何のための『負担』かということだ。……税金を払うのはより住みやすい社会を作るための、構成員の一人としての責任の分担である。……裁判員制度では損われた正義を回復する使命をもつ裁判に国民が参加する。私たちが正義を回復し、正義を実現する。その意味で税金や選挙よりはるかに役割は直接的だ。……だから米国では、陪審員として任務を果たすことは、義務であると同時に名誉ある権利と受け止められている」(2004年5月27日朝日新聞論点)。

 

 司法審意見書の「Ⅳ国民的基盤の確立」の項には、「21世紀の我が国社会において、国民はこれまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を醸成し公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められる。国民主権に基づく統治構造の一翼を担う司法の分野においても、国民が自律性と責任感を持ちつつ、広くその運用全般について、多様な形で参加することが期待される。国民が法曹とともに司法の運営に広く関与するようになれば、司法と国民との接地面が太く広くなり、司法に対する国民の理解が進み、司法ないし裁判の過程が国民に分かりやすくなる。その結果、司法の国民的基盤はより強固なものとして確立されることになる」との記述が見られる。

 

 2001年の記述なので何となく郷愁を誘うような表現であるが、裁判員制度はこのような、国民は国家のためにもっと役立つことができますよという国家側からのロマンティックな誘い水からスタートした。

 

 しかし、そこには裁判員の眼前に展開される裁判、しかも重大犯罪に関する裁判の厳しさにかかる表現は全くなかった。

 

 

 〈本来の刑事裁判に照らし廃止すべき制度〉

  

 自律性と責任感を持った、損われた正義の回復作業への栄誉ある参加であった筈の裁判で、裁判員は心を病み、下した判断は「推認過程の全体を把握できる判断構造についての認識が示されていない」として否定されるということでは、裁判員への誘い文句がどんなにロマンティシズムに溢れていたとしても、やはり裁判員制度の誘い水は詐欺的甘言以外の何ものでもなかったということになろう。最近マスコミにも取り上げられた裁判員候補者の参加率の低下(拙稿「司法ウオッチ」2017年9月~参照)の傾向は、国民の本能的なこの制度に対する忌避的反応ではなかったかと思われる。

 

 裁判員制度の制定は刑事裁判制度の大変革である。かかる変革を行う場合に最も重視されなければならないことは、国民が、司法の場に参加する意義を羅列することではなく、その変革によって公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現すること(刑事訴訟法第1条)にどれだけ貢献し得るかということである。

 

 特に刑事裁判制度の発展の歴史、つまり、本来は行政の分野に属することとされていたものが、裁かれる者の人権の保障の必要性から、民事訴訟に倣って当事者対立構造の方式をとる刑事裁判制度が採用された経緯を見れば、被告人の基本的人権の保障を全うし得ることにどれだけ貢献するものとなるかということでなければならない。要するに、正しい刑事裁判の実現に効果があるかということであり、国民を上から目線で司法に参加させ、間違った刑事裁判につながる確率が高くなるような刑事裁判制度の変革は絶対に容認してはいけない。

 

 今回の最高裁判決は裁判員裁判の事実認定に関する制度的能力の限界を示したものであり、この点からしても裁判員制度の存在意義はなく、かかる制度は本来の刑事裁判の在り方に照らしても廃止されなければならないということである。



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