はじめに
2009年8月3日に東京地裁で裁判員裁判第1号の事件の審理が開始されてから1年半余が経過しました。最高裁の速報値によりますと、2010年11月末現在で裁判員対象事件として起訴された人数は2822人、判決まで漕ぎ着けた事件は総数1501人、公訴棄却等を除いて1472人、起訴後終局までの期間は平均7.8か月、1年をこえるもの97人とのことであります。1321人の未済事件の状況は分かりません。
最高裁竹崎博允長官が憲法記念日にあたっての記者会見で、公判前整理手続きで、慎重になりすぎていることによる事件の滞留の懸念を述べていましたが、一方、マスコミやそれに登場する関係者は、概ね順調に運営されている、裁判員経験者も多くの人が良い経験をしたとの感想を述べていることを伝えています。
また、裁判員裁判を担当した裁判官の多くは、裁判官会同で、裁判員が参加することによって貴重な意見に接し有意義だったとの体験を語っています。
このように、多数の重大刑事事件の裁判が連日のように新聞で報じられ、それについての肯定的評価が伝えられますと、何となくこの制度は良い制度だという印象が広がり、さらに、これまでの絶望的と言われた官僚裁判官による刑事裁判に変化の兆しが見え始めた、裁判員候補者として呼び出されたが出頭しなかったとか出頭しても参加を断わった人が相当数にのぼるのにこれまで誰一人過料の制裁を受けていない、要するに事実上強制はないと言って良い、守秘義務が厳し過ぎると言っても記者会見でテレビに顔を出したり名前を出したりして結構感想などを自由に述べている、それほど心配しなくても良いのではないか、などと思われる方が増えて来ているのではないでしょうか。
先日、私は、ある方から質問されました。その方は、かなり裁判員制度を研究しておられるようでした。その質問内容は、弁護士として裁判員裁判のためのスキルアップの機会はあるのか、現在何人位の弁護士が裁判員裁判を担当しているのか、というような制度運用上の問題にかかるものでした。
私は、裁判員裁判は、傍聴はしたことがあるけれども、弁護人として経験してはいないので、そのような制度運営について数値とか状況について言える立場にはない、私の立場は、制度そのものに反対であり、その理由はかかる制度は国家の基本法の許容するものか、裁判員となることを国民に義務付ける憲法上の根拠はどこにあるのか、素人参加の裁判を被告人は何故拒否できないのか、素人の参加はそれほど良いものか、という根本的な問題について納得のいく回答は与えられていないからだと申しました。
そして、その方に、国民が裁判員となることを強制される根拠はどこにあると考えるかと逆に質問しました。その方は、この私の質問に対してはまともには答えず、ただこう言いました。いわゆる先進国と称される国では皆このような制度があると。
私は、そのような先進国と称される国には、停止しているかどうかは別として徴兵制がある、或る国では憲法上銃所持を認めている、ほかの国にあるから我が国でも正当化されるとは当然には言えないでしょうと言いました。
私のこの制度の反対の理由で最も大きいものは、この強制の問題です。それでは過料による制裁をなくす、つまり強制しないということにすれば良いのかということになります。
現在日弁連会長になっている宇都宮健児弁護士が日弁連会長選挙の際仙台の公聴会に来られたとき、私は、この裁判員強制の憲法上の根拠を質問しました。
宇都宮さんは、消費者問題については確かにエキスパートですが、それまで余り裁判員制度のことは深く考えてはいなかったようでした。この私の質問に対し、まともには答えず、「過料の制裁をなくす」とただ一言言いました。この言葉は、そのときの思いつきかと思いましたが、その後法律新聞にも掲載されましたので、その場の思いつきではなかったと思います。
ただし、彼が会長に就任されてからは、その言葉はすっかり影を潜めました。裁判員制度では国民に裁判員を強制しないで任意参加にすれば良いのか、それなら問題はないのかという問題がありますが、そう単純な問題ではないと思います。この点はのちに述べます。
なお、昨年10月の法律新聞1869号(2010年10月8日)に「裁判員経験者ネットワークの意義と展望」という記事が載りました。それは裁判員経験者の心理的負担の軽減と貴重な体験の市民団体としての共有が目的とのことですが、なぜ一般市民が心理的負担を負わせられなければならないのか、なぜ貴重な体験をさせられなければならないのかには全く触れていません。そのネットワークの協力者は裁判員制度推進派の立場の人ばかりでした。
民主主義と直結しない
裁判員制度は、いわゆる司法に関わることです。憲法76条第1項は「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」と定めています。
この司法というのはどういうことでしょうか。司法とは、具体的な争訟について、法を適用し宣言することによってこれを裁定する国家の作用だといわれます。最近、違った意見を表明している学者も散見されますが、基本的には違いはなさそうです。
兼子一という亡くなった民訴法、裁判法の大家はこう言っています。
「民主国家においては、あらゆる国家機関は民主的基礎の上に立たなければならない。しかし、司法が多数意思の圧力による少数者の自由の窒息に対する安全弁であり、また国政の極端な偏向に対する調節器の役を果たすことにその使命があるとすれば、立法部や行政部と同じような多数意思が働くことには危険がある。司法までが民主化しないところに合理的な民主主義の運用がある。」(裁判法p20)。
この「司法までが民主化しないところに合理的な民主主義の運用がある」という言葉は、その後、「司法のディレマンマ」などといわれるようになりました。
司法制度改革審議会、以下司法審と言いますが、その意見書についても、市川正人立命館大教授は「憲法学の観点からしますと、司法権の行使によって人権が守られ、少数者の権利が守られるということが最も重要なわけです。そういう観点からすると、民主主義的なルールが司法権の行使に直接入ってくることがいいのか、そのような場合に司法権の行使を通じて果たして人権、少数者の権利が守られるのか、やはり司法権の行使が民主主義のルールから外れていること、すなわち司法権の非民主性に意味があるのではないかというふうに憲法学では考えられてきたわけです。」と述べ(法律時報77巻4号p13)、酒巻匡京大教授も「司法審の意見書は確かに冒頭部分では国民主権原理と裁判員制度の導入について述べていますが、国民主権であるから国民参加であるというような単純素朴な議論をしていないことは明瞭であろうと思います。やはり、国家統治体制の基本的な常識的理解を前提として司法権の行使に係る裁判員制度は民主主義と直結する制度としては構想されていないのは明らかだと理解しています」と明言しています(同文献)。
裁判員制度を推進しようとする人々の中には、それは民主主義をより実質化するものとか(日弁連2008年発行パンフ)、民主主義の空洞を埋める意味を持っているなどと言う人もいますが(四宮啓弁護士、2007.12.30朝日新聞)、裁判員制度は民主主義と直結するものではないのです。