司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 陪審制は司法民主化の要か

 以前、私に裁判員制度について質問した方に、私が裁判員強制の根拠を尋ねた際の回答をご紹介しました(第1回「裁判員強制の問題」)。いわゆる先進国では、ほとんどそのような市民参加制度があるではないかということでした。ここでその強制の問題、憲法問題は横に置いて、市民参加、素人が裁判に参加することについて考えて見たいと思います。

 我が国にも停止中の陪審法があり、裁判所法第3条第3項には「刑事について陪審の制度を設けることを妨げない」と規定されています。陪審法は、陪審員の資格に所得による制限があるなど、そのままの形では復活させられないものですが、一応裁判への市民参加の道を開いているように思われます。

 私は原典に当たったことはないのですが、フランスの政治学者アレクシス・トクビルは、その著書の中で陪審制こそ、司法の民主化の要だという趣旨のことを記しているそうです。

 亡くなった哲学者の久野収氏も「司法における国民主権の第一の前提は、陪審制の確立でなければならない」と述べ、アメリカの建国の父ジェファーソンやハミルトンも「司法権の独立とは陪審制のゆるぎない確立と裁判官の終身制のゆるぎない保証につきる」と言い切っていることを紹介しています(展望1971年6月、筑摩書房)。

 裁判員制度に批判的な人の中にも、陪審制なら良い、陪審制こそ実現されなければならない、と運動している方もおります。

 私は、そこには二つの問題があると思います。一つは、陪審制が司法の民主化の要かということです。陪審制の起源については、フランスだとかイギリスだとか説がありますが、当初は証人的機能を有するものであったようです。現在のように裁判への市民参加という明確な形になったのは、アメリカではイギリスからの独立運動の成果として、フランスでは王制を打倒する革命運動の成果として、政治のみではなく、司法も人民が主体でなければならないという発想から歴史的に形成されてきたものです。

 その意味では民主主義と密接な関係があるようですが、政治の民主化と同一レベルでないことも事実です。多数の国民が参加して国家意思を決定するのではなく、国民のごく一部の人が裁判に参加するという仕組みですから、その人民参加というのは、人民が政治の主体であるということからすれば極めて形式的です。

 民主政治というのは多くのフィクションから成り立っていることは否定し得ないことですが、この陪審は、民主主義ということからすれば、それよりはるかにフィクショナルです。プロ以外の市民が参加すれば民主的であり、それが民主化の要という評価は、私にはとても理解できないことです。

 民主化しないところにある合理的な民主主義の運用

 もう一つの問題は、先に述べました「司法までが民主化しないところに合理的な民主主義の運用がある」という、司法と民主主義との関係にかかわることです。

 トクビルも久野収も、民主化ということに無条件の価値をおいていたのだと思います。国家作用は全て民主的でなければならないという観念が、その人々には支配的だったのだろうと思います。

 司法審が未だ「裁判員」という言葉を知らない段階で、この国民参加を議論したのは、強力な陪審制推進論者とその反対論者との対立からだったことはその議事録からも窺われることです。

 欧米では普遍的であり、過去には我が国でも行われた市民の裁判参加は、民主国家なら当然に採用されて然るべきだという意見が強力に述べられ、海外視察などもなされて、妥協の産物として現在の裁判員制度は生まれました。

 多くの人には市民参加は民主的という感覚で受け止められ易く、恐らく裁判員法案を審議した国会議員の殆どもそう受け止めたと思います。私自身も日弁連が長年取り組んでいた陪審推進論の洗礼を受けていましたので、何となく良いことのように思っていました。

 しかし、先ほども申しましたが、国家の作用としての司法というものは、民主的であれば良い、民主的でなければならない、人民が参加すれば良いという認識ではなくなってきたのです。

 憲法76条第3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定しています。いわゆる司法権の独立の宣言です。これは、司法までが民主化されないところに合理的な民主主義の運用があるという考え方が表れたものと私は理解します。



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