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 〈はじめに〉

 

 柳瀬昇教授の論説「裁判員制度の憲法適合性」(日本法学82巻3号、以下「3号論説」という。)については、2017年6月から司法ウォッチに私の見解を述べさせていただいた。同氏はその論説のなかで、最高裁大法廷判決(2013年11月16日)の判示のうち、裁判員の職務の苦役性に関する点については別に検討課題として論じることを述べていた。本稿の副題の論説(日本法学82巻4号、以下「本論説」という)は、その検討課題についての論説である。そこでは、そのほか、被告人の裁判の選択権の問題をも論じている。

 

 本稿は、その柳瀬氏の見解のうち、裁判員の職務の苦役性に関する部分の見解について疑問点を指摘し論じようとするものである。選択権の問題については、拙著「裁判員制度廃止論」(174頁以下)で既に詳述しているので、ここでは取り上げない。

 

 

 〈本論説の内容について〉

 

 柳瀬氏は、3号論説で、大法廷判決が、この裁判員の職務の苦役性について、それが上告趣意には含まれていないものであるのに上告趣意として取り上げている点についての判決擁護論を展開していることに対し、私はその論拠の誤りであることを既に指摘した(前記司法ウォッチ)。本論説で柳瀬氏は、「平成23年最高裁大法廷判決に係る事件の弁護人も、裁判員としての職務等が『多種多様の法的制裁(過料など)をちらつかされての義務として押しつけられた「苦役」であ』り、『この「苦役」とは憲法18条の……「苦役」と同じ意味内容である』と主張している。」と記し、それに引き続いて「平成23年最高裁大法廷判決では、この論点についての最高裁判所の判断が示されている」と記す。

 

 その柳瀬氏の表現自体にはほぼ誤りはないけれども、そこでは肝心の事実が伏せられている。この弁護人の主張と、それに対応して示されている最高裁の判断なるものを読んだ読者は、その部分をどのように理解するであろうか。弁護人の上記主張を上告趣意と解し、最高裁はそれに対して判断を示したものとは解さないであろうか。

 

 しかし、それは誤りであり、正確には上記の弁護人の表現は上告趣意としての表現ではない。拙著「裁判員制度はなぜ続く」(以下単に「拙著」という。)でも引用したが(109頁)、その表現に続けて、同弁護人は「その苦悩」の小見出しを付して、「したがって、裁判員たちが、仮に憲法違反の認識を抱いていたとしても、目前の法的制裁の方を遙かに恐れて、その認識を『裁判員参加の拒否』という実行行為に移す勇気や決断がなかったことは優に推察できる。……辛く苦しい回答書を裁判所へおずおずと返送した多くの人たちに『お気の毒ですね。不運ですね』という深い同情を覚えた。このようなことからして、千葉地方裁判所の裁判員たちに憲法違反の責任を負わせることは、だれにもできない」という文脈の中で述べられている言葉である。

 

 要するに、上告趣意としてではなく、参加した裁判員は、憲法違反の職務を担当することとは分かっていても制裁が怖いから担当したのだから、それらの人々に憲法違反の責任を負わせることはできない、裁判員は悪くありませんよと言っているだけである。どこにも、裁判員の職務が憲法18条違反だから原判決は破棄されるべきだなどとは述べられていない。また、最高裁判所のその論点についての判断とは、そのような上告趣意ではないものを勝手に上告趣意として作り上げて示されたものである(拙著108頁以下)。

 

 柳瀬氏は、3号論説の中で、弁護人が上告理由として憲法80条1項本文前段と76条1項、2項の2か条のみの憲法適合性を争点化しようとしたことを認めていた。そのことは憲法18条が上告趣意に含まれていなかったことを十分に認識していたということである。

 

 そうであるのに、弁護人の主張を上告趣意と誤解されるような、且つ、最高裁の判断がその上告趣意に対するものであるかのような表現を用いたことは、真実の探求者としてはいかがなものかと思う。



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