〈「授権」をめぐり論理法則を踏み外した大法廷判決〉
前記大法廷判決は、憲法76条3項違反の問題を上告趣意に含まれるものとことさらに構成し判断している。かかる判断をすることは本来許されることではないけれども(司法ウォッチ2013年12月~2014年3月私の論考)一応ここではその点には眼をつぶってその判断内容を見よう。
「憲法が一般的に国民の司法参加を許容しており、裁判員法が憲法に適合するように法制化したものである以上、裁判官が時に自らの意見と異なる結論に従わざるを得ない場合があるとしても、それは憲法に適合する法律に拘束される結果であるから、その違反の評価を受ける余地はない」。これが憲法76条3項と裁判員制度に関する最高裁大法廷判決の憲法論である。
この点についての批判は別に述べたけれども(拙著「裁判員制度廃止論」p141以下)、ここでは「国民の司法参加」と称していること自体に誤解があることを先ず指摘したい。
前述のように、司法権という強大な国家権力を行使するものは、国民の中の1人ではなく、国民という本来は目に見えないシンボルから授権されたものであるべきであり、たまたま衆議院議員の選挙権を有する者の中から原則無作為にくじで選ばれた一市民は、憲法第6章の規定上、国民から権力行使を授権されたものとは到底言えない。また、かかる者が裁判体に加わり評議に参加することは、憲法の許容するところではなく、ましてかかる者の発言が裁判官の判断に、ひいては判決の結論に影響を与えることは、憲法76条3項の禁ずるところである。
前述の大法廷判決の「憲法が一般的に国民の司法参加を許容しており」と断定するためには、かかる一般市民の裁判関与がその民主的正統性ありと言えるのか、国民の代表としての授権のない者の裁判関与は憲法76条3項に違反しないのかという検討過程を経て初めて出されるべき結論であるのに、大法廷判決は裁判員制度の違憲判断をなすについて、かかる論理法則を踏み外して論じているものである。
〈尊重し過ぎた裁判員の意見〉
裁判員制度の下では、一審裁判官は、裁判員裁判であるということだけで、裁判員なる市民の意見に影響され、本来あるべき、国民から裁判官として授権された司法権の行使を歪める可能性があることは否定し得ない。もとより、一審の評議の内容はその秘密性の故に明らかではないが、検察官の求刑より1.5倍も長期の有期刑を言い渡すことはこれまでの裁判では殆ど有り得なかったことであるから、その判決は裁判員の意見に影響されて下された可能性は否定し得まい。
本件一小判決は、この求刑1.5倍判決について、結論として一・二審判決を破棄自判し、被告人のうち1名に求刑どおり、他の1名に求刑を下まわる刑を言い渡した。
直接主義・口頭主義を徹底させる立場からして、一審に差戻し、裁判員裁判をやり直すという選択肢も裁判員制度推進の最高裁の立場からすれば有り得たのではないかとも考えられるけれど、被告人の負担を考えれば、後者の選択肢はなかったかも知れない。もとより、事実関係の詳細を知らない私は、自判した量刑の相当性を論じる立場にはない。