司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 〈裁判員となることは参政権と同じか〉

 判決は、裁判員制度の憲法18条違反の上告理由に関連して、「裁判員の職務等は、司法権の行使に対する国民の参加という点では参政権と同様の権限を国民に付与するものであり」と判示する。判決は、全体として希代の迷判決であるけれども、その中でもこの部分ほど笑止千万なものはない。

 裁判員は一部の例外を除き、国民の義務として構成されている。自分の日常生活を犠牲にしても裁判員にならなければ行政罰を課され、守秘義務違反、質問票虚偽記載では刑罰まで予定されている。それが国民に対し「参政権と同様の権限を付与するもの」とはどのような思考回路から出て来るのであろうか。

 この事件の最も重要な憲法判断を要する部分が、この国民に課した裁判員参加義務の正当性に関するものであるのに、それについてかかる荒唐無稽な判示をして、この制度にお墨付きを与えようとする最高裁の態度には、それでもお前は本当に最高裁なのかと問いかけたくなる。

 〈司法と民主主義との関わり〉

 判決は、国民の司法参加を「刑事裁判に国民が参加して民主的基盤の強化を図る」ものと評する。また、国民の司法参加は、民主主義の発展に伴って裁判の国民的基盤を強化しその正当性を確保しようとするものであり、その流れが広がり陪審制、参審制が採用された旨判示する。

  国民が司法に参加することが、いかにも民主主義の流れに沿うものだということのようである。ところが、我が国を含め多くの民主主義国家において、最高裁のいわゆる「裁判の基本的担い手」が「裁判官」とされるのは何故であろうか。

 現に我が国の裁判は、決定命令を含めればその99%余は職業裁判官によってなされている。もし司法に国民が参加し民意が反映されるべきであるとか、国民の司法参加は司法の国民的基盤の強化を目的とするものであり、いわば国民の司法参加がなければ国民的基盤が脆弱だと言わんばかりのことを言いながら、ほとんどの裁判が裁判官によってなされていること、その基本的な担い手が裁判官であるというのはおかしくはないであろうか。

 私は以前、「裁判員制度に見る民主主義の危うさ」と題する論稿を発表した(週刊法律新聞2008年5月30日号)。兼子一教授のいわゆる司法ジレンマ論や、今関源成教授の「一般にはむしろ司法は政治部門の組織原理である民主主義によって支配さるべきではない」との意見は、司法に民主主義を持ち込むことの危険性を説くものである。憲法76条の裁判官の独立の規定はその原理の表われと解される。

 欧米が陪審・参審制を持ち込むことになった歴史的流れには民主主義的意識が働いていたことは間違いないであろう。しかし、それが司法の本質から見て正当なことなのかについて十分な検討が加えられたものとは、とても考えられない。陪審の本場英米においても、その制度への批判は従来からあり(ジェローム・フランク「裁かれる裁判所」、棒剛「イギリスにおける陪審制批判の系譜」など)、ドイツではプロの裁判官による参審制の評価の低いこと(ジュリスト2001年4月10日号、p170)、フランスでは陪審員候補者として召喚されても仕事を休むより罰金を払って出頭しない方が経済的だとする市民が少なくないと言われる状況にあること(前同ジュリストp171)からも窺われるように、国民参加が司法の国民的基盤の強化に貢献するなどとはとても即断できることではない。

 判決が各国の司法への国民参加制度に触れ、それについて我が国の制度の憲法判断の参考とするのであれば、その運用の実態、特にその制度についての批判意見を十分に検討することが必要であろう。判決にはもとよりそのような形跡は全く見られない。



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