司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 〈本来論ずべきこと〉

 

 一小判決が本件で論ずべきだったのは、裁判員裁判をどの程度まで尊重し得、またすべきかという立場からのものではなく、本来量刑とはいかなるものであるべきかであり、そのあるべき限界を踏み外した量刑は、裁判官裁判であろうが、裁判員裁判であろうが、均しく正されなければならないということである。

 

 刑事裁判においては、被告人は公平な裁判を受ける権利があるから(憲法37条)、それが裁判官裁判だからとか、裁判員裁判だからといって差等が設けられて良い筈はない。刑罰も、国民の代表が定めた法律に定められているものであり、解釈の幅に多少のゆとりのある一種の法律解釈なのであって、その枠を踏み外すことは許されない。例えれば、道路に印されている車線の走行のようなものである。車線は、鉄道のレールとは異なり、自動車の車幅よりはゆとりをもって広く引かれている。通常はその車線の中心部分の走行が望ましいけれども、多少は左右に寄る走行もあり得る。しかし、その車線を踏み外すことは極めて危険であり、危急を避ける場合などの例外を除いて原則的には許されない。

 
 量刑も同様であって、裁判体がいかなるものであっても、もともと踏み外してはいけない線があるのであり、それは裁判体が裁判官のみか、裁判員が加わっているか、裁判官の構成人数がどうかは関係がない。

 

 なお、一小判決はその理由中において「公益の代表者である検察官の……求刑」と述べるけれども、その理由付けはおかしい。検察官が公益の代表者であるからといって正しい求刑につながることはない。その求刑は、刑事政策についての責任者として、全国的公平性を保つ立場から多くの先例から集積されたデータの保持者としての信頼性を有する者ということでなければ説得力はあるまい。

 
 以上述べてきたことは、要するに、裁判員は裁判という国家権力の行使者としての民主的正統性の全くない一市民に過ぎないものであるから、司法審第30回審議会での最高裁意見のように、市民の意見の陳述とその尊重までは可としても、裁判員法第67条の規定に関わらず憲法上その意見を裁判の結論に影響を与えるような形で対応してはならないということである。それは単に量刑においてばかりではなく、事実認定、法令の適用の場においても当て嵌まることである。

 

 

 〈裁判員イメージを勝手に理想化〉

 

 一小判決の裁判長である白木勇裁判官は、本判決に補足意見を記している。まず量刑についての基本的なあり方についての私見を述べ、さらに裁判員との量刑評議のあり方にも言及している。

 

 「量刑判断の客観的な合理性を確保するため、裁判官としては評議において当該事案の法定刑をベースにした上、参考となるおおまかな量刑の傾向を紹介し、裁判体全員の共通の認識とした上で評議を進めるべきであり、併せて、裁判員に対し、同種事案においてどのような要素を考慮して量刑判断が行われてきたか、あるいは、そうした量刑の傾向がなぜ、どのような意味で出発点となるべきなのかといった事情を適切に説明する必要がある。このようにして、量刑の傾向の意義や内容を十分に理解してもらって初めて裁判員と裁判官の実質的な意見交換を実現することが可能になると考えられる」。

 

 その意見は要するに、裁判員が証人や被告人の法廷での供述等証拠から受けた率直な印象だけではなく、量刑のあり方や過去の量刑に関して裁判官から基本的なレクチャーを受けてその傾向を知り、それらを総合して意見を述べてもらうことが必要だというのである。

 

 しかし、その白木裁判官の意見は、裁判員のイメージを、法律を無視して勝手に或る意味で理想化しているものである。義務教育を終了してさえいれば就任可能な裁判員に、そこまで求めないと適正な量刑が不可能だというのであれば、そもそも裁判員制度の制度設計に根本的な問題があったということになりはしまいか。

 

 また、裁判員制度というものは、単に市民の視点や感覚の反映、国民の健全な社会常識の反映が謳い文句の制度であっては困ると言っているようなものになる。これまでの謳い文句は、市民呼寄せのための偽りのプロパガンダに過ぎなかったということになる。「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」という標語は、その偽りの典型になる。



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