〈司法改革でみた翼賛体質〉
陪審制・参審制は憲法違反だとか、そのような制度は望ましくないなどと大上段に主張すると、反民主主義、非国民のレッテルを貼られるような雰囲気がある中で、無能、非力を省みず裁判員制度反対の論陣を張り、また敢えてこの拙文をものした真の動機は、単に裁判員制度を批判し、裁判所の現状を批判しようとするだけではない。
1990年に司法改革が叫ばれてからあれよあれよという間に、司法試験制度、司法修習制度にメスが入れられ、ロースクール制度が始まり、弁護士大増員、弁護士職務のビジネス化へと一気に進み、この裁判員制度についても、国民の司法参加という美名のもとに十分な論議なしに施行され、その後70%以上の国民の批判的意見にさらされるという、つまり国民の意向を全く無視する形で制度化された一連の流れと、当初は日弁連、弁護士会も多少の抵抗の姿勢を見せはしたけれど、その声はいつしか小さくなり、この裁判員制度という、一時は最高裁(事務総局?)も違憲の疑いありとしていた制度について今は賛意を示しさえしていることに心底危機感を覚えるからである。
この翼賛体質は、憲法改訂の動きに対する国民の反応に極めて重なるところがある。
〈今からでも遅くはない〉
私は、以前読んだ本で「彼らは自由だと思っていた」(ミルトン・マイヤー著、田中浩、金井和子訳、未来社)を思い出す。
その中に、「ニーメラー牧師は、(御自身についてはあまりにも謙虚に)何千何万という私のような人間を代弁して、こう語られました。ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した――しかし、それは、それは遅すぎた、と」という一節がある。
このエピソードは良く取り上げられるものだが、この裁判員制制定への流れが、憲法改悪、徴兵制への地ならしではないか、今これを止めないと大変なことになるのではないかという思いが消えない。
今からでも遅くはないから、問題の本質を徹底的に議論し、批判すべきものは批判し、賛成すべきものは賛成するという民主主義の原点に立ち返って自由に論じられることを念じるのみである。=このシリーズ終わり。