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 2012年、平成24年1月となった。カンボジア旅行から帰ってから2ヶ月たったが、この間、フィリップ・ショートの「ポルポト」(白水社)を読み、ハイン・ニョルの「キリング・フィールドからの生還」(光文社)、渋井修「素顔のカンボジアも読んだ。

 1975年4月17日、クメールルージュがプノンペンを制圧し民主カンプチア政府を樹立し、1979年1月7日、ベトナム軍に支援された「カンプチア救国民族統一戦線」にプノンペンが解放されるまでの、ポルポト政権下のカンボジアの3年8ヶ月間、200万人、国民の4分の1が飢えと虐殺により死亡したといわれる3年8ヶ月間の謎の解明に、今も心がとらわれている。

 「4月や5月になると、一部の田に種が蒔かれ、やがて柔らかい緑の苗が伸びてくる。雨季に入ると、男も女も総出で田植えをする。降り続く雨のおかげで稲は青々と茂り・・」(ハイン・ニョル)と、かっては静かで美しく平和な風景のカンボジアがあった。そこで、今「私達囚人は一列につながれて、再び歩き出した。監獄にたどり着くと、やはり一列につながれた別の『新住民』の一団がいた。・・・飲まず食わずで十字架に縛られたまま四日過ごし、5日目の朝、ようやく十字架から降ろされた・・・夜が明けて、監獄に戻されると、18人いた囚人のうち生きているのは5人だけだった」(ハイン・ニョル「キリング・フィールドからの生還」177P)。

 これはカンボジア共産主義革命の一断面であるが、革命政権3年8ヶ月間の間、ポルポト革命政府は、外部世界との交通通信を一切遮断し、かつ政府、軍部内部でも、相互に完全、徹底的な秘密主義をとっていたために、農業の集団化や、旧社会生活、文化、宗教、慣習の徹底的な破壊、その結果により、飢えによって多くの餓死者が出ていたことを世界は全く知らなかった。

 1950年代末の中国の毛沢東の大躍進政策と同じようなことが実行され、その政策の失敗により、ポルポトは、同じように大量の餓死者を出した。「世界中の多くの人は、まさにそのかかげる理想故にクメールルージュを賞賛した。・・わが国のジャーナリスト本多勝一は・・ポルポトたちを理想化し続け、虐殺報道をデマ呼ばわり」(フィリップ・ショート「ポルポト」(P685 訳者あとがき)していたという。

 カンボジアの悲劇は、20世紀のさまざまな要因が重なって生じた歴史の結果であろうと思う。カンボジアの悲劇の始まりには、大国、タイとベトナムにはさまれた旧アンコール朝滅亡の歴史があるし、19世紀末の帝国主義の時代となるとフランスのインドシナ植民地政策によるカンボジアの保護国化があり、それに対するフランスへの民族独立運動が、スターリンとコミンテルンの影響を受ける。

 戦後になると、フランスからの独立運動には、米国、ソ連、さらには中国共産党の影響も加わって行くという複雑な背景があった。



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