〈競争政策導入反対に国民は同意するか〉
東京の弁護士会地下の書店には、河野元法律新聞編集長の司法制度改革批判三部作が大量に平積みされていた。司法制度改革については、まず私は現代という時代の世界を含める社会構造変化を前提において論じなければその行方を見定めることは出来ないし、又正しく評価も出来ないだろうと考えている。経済のグローバル化と情報革命という社会構造の変化が、民主主義そのものに変化を及ぼして教科書的民主主義が機能しなくなり始めている。当然に憲法秩序を支える立法行政司法の三権にも社会構造の変動が及び始めている。このような時代を背景にスタートしたのが、司法制度改革だった。
司法制度改革の主眼は、司法分野でのサービス提供に競争政策を導入することにあった。価格競争と広告解禁がそのシンボルである。公務員ならぬ弁護士という個人事業者の生計問題は、あくまで競争の結果に委ねられたのであって、国民代表は弁護士としての最低品質を確保監督すれば足り、それ以上の質と効率は、国民が価格によって選択する。つまり自由主義的原理が今回の司法制度改革の柱となっているのだ。
私からすれば、そもそも日本の資格制度を、つまり職業選択・営業の自由の例外的な制度全体を、あらためて見直すべきで、今回の司法制度改革においても規制改革はまだまだ不徹底不十分だと思う。戦後一度は廃止された強制会制度、業務独占規定等々、廃止縮小すべき制度上の問題は依然多く残されているのである。
「自由と正義」を看板とする職業人の団体に、政府国民からの保護や供給独占利権は本来似つかわしくないと思うが、それを特権のごとく平気で考えている資格者は少なくない。実は、競争政策導入の不徹底こそが、超過利潤を一部の新興法律事務所や司法書士事務所に集中させているのである。
「私のように民間からきた人間からすれば、(弁護士界にたいして)非常に違和感がある。この弁護士数の議論で噛み合わないのは、弁護士になったら一生安泰であるべきだというのが前提で、その上で数をどうしたらいいかを話している。それは違う」と石丸弁護士は言う。私も司法書士登録をして司法書士会に入会した時、国民から遊離した資格者の世界に吐き気がするほどの違和感を覚えた。
「弁護士は法律というサービスを提供しているが、他の業界の人たちと違うことはないということだ。弁護士だから、公的な役割があって手弁当で人権問題をやるから、だから競争するようなことがないようにしてほしい、というのは違う。基本的にわれわれは自営業者だ。他の多くの企業に勤める人達と変わりはない」という石丸弁護士の意見に賛成である。
これまでの日本の弁護士や司法書士には苦労人や屈折した人達が多かった。60年代以後の経済成長の時代の大波から外れた人達が多かった。その屈折が、隠された知的選良意識を余計に強化する。染み付いた貴穀卑賎の思想、反資本主義思想もその屈折が原因である。こういう人達が消費者、大衆の選択権を尊重するはずもない。
「そもそも『競争制限しないと、ボランテイアはやらない』というのがおかしい。ボランテイアは強制されるものではない。任意でやるものだ。収入がない人でもボランテイアやりたいという意思がある人は、やっているでしょう?」(石丸弁護士)。
社会主義世界が崩壊して以来、それまでの対立軸であった議会制民主主義、福祉国家は、決して社会主義に勝利したのではなく、その後の社会変動でむしろ変革を迫られているのだ。
丸山真男の近代主義も、吉本隆明の無政府主義もスマートフォン世代には説得力を持たない。偽善はたちまちに見抜かれる時代になっている。弁護士だけが試練にあっているわけではない。日本の司法制度、そして日本の戦後民主主義と秩序が試練の時を迎えているのである。