11月タイのバンコック、アユタヤに行ってきた。これは渉外協の現地法律相談会に便乗したものだ。来年はミャンマーに行くらしいが未定。
アジアの国々を巡っていると文明とは何か、6万年単位で歴史を考えるようになる。6万年、氷河期で出アフリカの第一回から今日までを見ると、欧米300年の近代史はほんの一瞬に見えてくる。この欧米300年を日本人はこれまで学び、模倣して来たわけだが、欧米300年の今日に続く内容である、自由主義、個人主義、競争主義、代議制民主主義、資本主義と自然科学の6個の原理をどれほどものに出来たのか疑問に思う。「中国に欠如しているのは法ではなく、法の支配である」(陳光誠 国家劣化96P 東洋経済新報社)というが、中国どころではない。
最近の「秘密保護法」成立をめぐる国会やマスコミ、人民の意識状況を見れば、この日本国にも法治はあっても「法の支配」はない。法の支配という言葉があるのは司法試験受験界と司法修習生の間にあるだけで、司法書士の世界とは全く無縁である。「法の支配」とは何か・・・直ちに答えが出てくる人手を上げてといってもすぐにはあがらないだろう。その位、わが国の過剰な法治と行政権力の前で、この言葉は無力化している。
「法の支配」とは「憲法の支配」と言っていい。「法の支配」は1215年のマグナカルタに始まりイギリスで積み重ねられて来た法原則であるが、この不文の法原則「法の支配」は、アメリカ合衆国で、アメリカ憲法として成文化された。敗戦後、日本はこのアメリカの指導のもとに、日本国憲法を作り、「法の支配」原則採用を高らかに国民の前に宣言した。
その精神は、「憲法第10章最高法規中、第97条基本的人権、第98条①この憲法は、国の最高法規であって、その上記に反する法律、命令、詔勅および国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」という規定に表れている。
まだ貧しいが、アジアの国にはどこにも元気がある。どこの国でも子供の顔が生き生きしている。今年の夏はモンゴルのナーダン(独立記念日)に行き、子供競馬を観戦したが、ひとつの世界、グローバルな世界という人類の認識は、ここモンゴル高原の遊牧民から始まった(突厥は1000年後トルコ民族となった)。欧米人はまだ赤頭巾ちゃんがいる毛むくじゃらの森の民であった。
今、そのモンゴルが第二のサウジアラビアになると言われている。それは首都ウランバートルから「数百キロ離れた鉱山がもたらす富がモンゴルを世界トップクラスの高成長国に変えつつあるからだ」(8・25 日経新聞)。モンゴルの鉱物資源の特徴は「石油、天然ガス、銅など単一の鉱物に依存するモノカルチャー型資源国ではなく、銅、石炭、鉄鉱石、金、ウラン、レアアースなど多様な資源を持つ「資源のデパート」であることだ。しかも単一の鉱山の埋蔵量が銅、石炭、金などでは世界最大級」であるという。(8・25 日経新聞)。「1950年代に油田開発が本格化したサウジアラビアは20年たらずで世界で最も豊かな国のひとつになった。・・モンゴルもまたこれから20年以内に私たちの想像を超えた大発展を遂げる可能性がある」(8・25 日経新聞)。
アジアは大きく変わりつつある。一足先に工業化を成し遂げた日本および日本人は、文明という価値の面、道徳の面で、なにかしらかれらの手本になるようなものを持っているのだろうか。