アホノ帝国と司法書士会には共通した大原則がある。その共通する大原則とは、現憲法の核心的価値である「『個人』の尊厳と幸福追求権」の保障について、その価値と権威を、全く無視する、法形式主義(多数決主義)による権力主義で、実は、それは、全体主義国家が、まず、最初に採用する人民の人権抑圧手法なのである。
「『個人』の尊厳規定」は、すでにアホノ帝国の憲法改正案からは削除されており、一方、司法書士会においては「『個人』の尊厳」という言葉は、司法書士会のいかなる文書にも現れてこないほど無視されている。アホノ帝国の人民の人権意識と、全国司法書士会構成零細事業者の人権意識との、人権感覚、意識程度の差を見れば、そのわがままさも考慮にいれても、アホノ帝国の人民の人権意識の方がはるかに高いと言えるかもしれない。
司法書士会という事業者強制加入団体の支配者と、その指導及び調査(糾問主義、自白強制主義)という名の命令下にある隷従者、司法書士零細事業者との関係を見れば、その支配服従関係は、中国における不謬の支配者、人民民主主義の共産党と、かの国のダブルトーク、ダブルシンキングの人民との関係に近い。100年の司法書士制度の権威は永遠であると胸を張っている人はすでに墓の中だろうが、明治維新以降のヨーロッパ帝国主義下での近代統治技術導入の過程で、近代的所有権確立及び徴税のツールとしてドイツ式公示制度を真似したのが、わが登記制度、司法書士制度である。
実は今、その制度の中核をなす、登記制度が、IT革命による合理化の最後のターゲットとなっていることを日本司法書士連合会指導下の零細司法書士事業者はどれほど知っているのであろうか。この分野はアベノミクス第三の矢の有力な改革分野であるが、アベノチームが民事法務局の抵抗を乗り越えて、国民、法人ナンバーにリンクさせた登記のITシステム化に手をつけるのは意外と早いかも知れない。
この合理化で不利益を被るのは、民事法務局職員と司法書士事業者で、抵抗勢力のもっとも弱い分野である。従って、すでに役所はこのことを周知しており、それなりの作戦を打ち始めているのだろう。現に登記所は乙号事件の処理を臨時職員なる非正規労働者に任せており、登記事務の国民からの相談については、司法書士資格者を臨時に雇っているという有様だ。
日本の植民地だった韓国には、帝国日本により、日本の登記制度が押し付けられた結果、司法書士ならぬ法務士が存在しているが、間もなく法務士は弁護士会に吸収されるという。さらに登記申請代理権は宅建業者にも開放されるらしい。韓国の行政は日本以上にIT化が進んでおり、とうに印鑑証明制度は無くなっている。
司法書士制度は決して普遍性を主張できるような資格制度ではない。それは発展途上の工業化社会で機能してきた制度に過ぎず、今日のような成熟社会、情報化社会においては、加えて、年間弁護士三千人増の世界においては、登記の予防機能より対抗要件主義のほうが、効率とコストからみて重視されることになるだろう。
次回は「140万円超の債務整理『司法書士は出来ぬ』」(2016.6.28 朝日新聞社会面見出し)かどうかを検討し、「法律家」としての司法書士に未来はあるのかについて論じたい。