司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 
 第3回 平成という時代(下)

 アジア2000万人の犠牲者をともなった第二次大戦の日本国無条件降伏の前後で、日本社会のシステムが、根本的に変わる、天皇主権から国民主権に変わったような変化が、大津波震災原発事故後の日本に生じつつあるのではないかと主張する論者が増えてきた。

 投資家の藤巻健史氏は「今回の震災は、今までの日本と決別すべき大事件です。今後の景気の急速な悪化や財政破綻の深刻化を通じて、人々はだんだんと『今までの日本との決別』を認識することになると思います」(マネー避難 55P 幻冬舎)と述べている。

 「今までの日本との決別」は、1950年生まれの藤巻健史氏にとっては、菅総理大臣を筆頭とする政治家、東京電力幹部、大労働組合幹部、御用学者、誤用マスコミ幹部ら全員との決別も意味しているらしい。

 司法制度改革に始まるわが国国民の、欧米並みの法律生活、一時法律業界で流行った「法化社会」化論議など、確かに戦争中でもないのに15%の電力制限令が100万円の罰金付で政府から発令されるなどという震災原発後の現在では消えてしまうというより、消されてしまいそうである。

 法の公平公正な審判という司法作用は、豊かで安定した社会であって十分に機能するが、海沿いの町や村が、広島原発や空襲後の焼け跡とそっくりの様相を呈するに至った東北三県をみれば、法化社会どころではない。規制改革、TPP論議も、昨日の別世界の話という感じになる。

 福島原発から200キロ以上離れた東京の事務所で、お茶を飲みながらこの原稿をパソコンに打ち込んでいるが、もともと高齢化が進んでいた東北3県の多数の被災者の方達の日々の生活を思い浮かべると申し訳ない気持ちで今のところ安全地帯にいる私も気持ちが落ち込んでしまう。

 夏が来て、腐敗した大量の魚と瓦礫の山に発生した無数のハエや蚊と異臭のもとでの暮らし、それと被災を免れた東北県外の人々との生活落差はどのように埋められて行くのだろうか。原発事故で人の消えた街、そこに家畜たちが餌を求めてさまよっている。原発事故後のチェルノブイリの街、村とそっくりである。

 チェルノブイリの原発事故が起こったのは、1986年4月26日の事だった。この頃の日本は、欧米との貿易摩擦のさなかにあって、アロガンスジャパニーズと外国人から評されるほど、自信たっぷりだった。

 この事故のことは、遅れた社会主義での出来事として、すぐに日本人から忘れられた。日本人はこの事故から何も学ばなかった。そして、25年後、2011年3月11日午後6時福島原発が事故停止した。

 藤巻健史氏は「今後の日本経済は・・社会はどうなるのか、・・原発処理いかんだと思いますが、震災で『円の暴落』か『国債の暴落』の可能性も高まってきたので、震災前の社会とは全く異なる世界に突入する」と予測している。とすれば過去の延長線上でものを考えてみても無駄とも言われるが、これからの日本人の暮らしについて確かに言えるのは「以前のような豊かな生活は今後しばらく望めない・・(震災原発事故で急激に変化する経済社会環境のもとで)豊かさが次第に失われて行く・・・(そうして)人々は『これまでの日本とは違うぞ』と徐々に悟ることになる・・」と結論付ける。

 少子化による消費市場の縮小、高齢化による福祉費用負担増大、増税電力値上げによる実質所得の減少、そしてこの国の通貨の運命は?



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