はじめに
私は1988年、昭和63年、44歳の時に司法書士試験に合格し、翌年、平成元年に東京五反田で事務所を開業し今日に至っています。合格する前はスエーデン、ダイナパック社との合弁会社 日本コンクリートテクニックの社長をしていました。司法書士という職業は、当時会社の法律顧問、ブレークモア三木事務所から会社登記のために派遣されてきた司法書士をとおして初めて知りました。
その後、日本コンクリートテクニック社はダイナパック社に吸収合併され、それを機に、私はビジネス界から足を洗って、資格で飯を食っていこうと考えたのです。ですから資格取得の動機は大半の司法書士と同じです。要するにダイナパック社にクビを切られ食い詰めたから資格でもとろうかというわけです。6億円も債務超過だった会社を親会社であるダイナパック社が引き受けてくれたわけです。
1980年頃、アメリカ人の書いた「ジャパンアズナンバーワン」なんて本がベストセラーになり、日本人が鼻高々だった頃のことです。最後にダイナパック社は私のクズ株式を50%の価格で買ってくれて大いに助かりました。
ダイナパック社は、世界の振動ローラー(アスファルト舗装でよく見るあのローラー)のトップメーカーでしたが彼らのビジネススタイルは決断が早く合理的でフェアーであり、この取引の経験や北欧諸国へのたびたびの出張の経験は私の人生観を大いに変えてしまったように思います。
1970年代にスエーデンに行くには日航の国際便で片道100万円、ソ連のアエロフロートで60万円もしました。それで私はアエロフロートを良く利用し、トランジットでモスクワ郊外のホテルにしばしば泊まることがありました。アンドロポフが書記長で、新指導者としてゴルバチョフの名前が出始め、しばらくしてチェノブイリの原発が爆発して世界の大事件になりました。
資格は44歳の私にとって、なによりも飯を食う手段でした。資格勉強する前には法律のことは全く知りませんでした。世の中が、微分方程式ではなく、足し算引き算、掛け算割り算で回っているように、社会関係も基本的には道徳と常識で回っているものであり、法律は例外的な社会的病理や紛争解決のための道具に過ぎないと考えていました。
マルクスの言う土台と上部構造で言えば、法律はその上部構造に過ぎない。土台の社会経済関係が変われば法律も変わる、自然科学や経済活動が独自の価値と存在を明瞭にしているのに対して、法律と言う知識技術は進展変化する社会現象の従属変数に過ぎないのではないかとも考えていました。
そのような具合でしたから、私が法律の世界で生きるようになり、最近では法廷で弁論を展開するようになっても、使用言語は別として、法律で飯食う人々の生態が、司法の世界に生きる人々の人間観や日々の暮らしや喜びがどんなものであるのか未だに良く分からないのです。
法の世界を支える根本原理である正義が、本来普遍的であるべき正義という原理が、日本の司法の世界では、どうやら、「日本正義」という特種原理に作り変えられて法が運用されているらしい等と疑ってしまうわけです。
正義の内容である、公平と平等の原理が、この国の司法の中で本当に生きているのであろうか。日本国は、憲法でもはっきり個人の尊厳と自由、自由主義と民主主義を規定し、その遵守を公務員に命じているのに、日本の司法はその憲法上の命令を、真面目に、真摯に受け止めているのだろうか、そのことについても私には確信が持てないのです。
そこでこれから、「司法書士という元ビジネスマン、法をかじった普通人」である私の立場から、欧米とは多少異なるように見える日本司法、法とそれで飯食う人々の生態を探検して行きたいと思います。