平成26年6月16日 東京司法書士会第5回理事会で、広告に関する運用指針として、規則の末尾に「会員の証明責任 会長又は綱紀調査委員会から証明を求められたときは、当該広告をした会員は、これを証明しなければならない。広告をした会員が広告内容につき事実に合致していることを証明できなかったときは、当該広告が「事実に合致していない広告(第3条第1号)に該当するものとみなすことができる」という規定が決定された。この基準により、会員が虚偽の広告をしたと疑われた場合には、その広告が虚偽でないことを会員が証明できなければ、虚偽の広告をしたものとみなされ、会則違反で懲戒処分を受けることになった。
私は驚きあきれ果てた。これは拷問に通じるとして近代社会が禁じてきた「自白の強制」にほかならないではないか。本来、立証責任は規制権限をもつものにあり、法律によらず、このような自白強制を会員に課したとすれば、そのみなし規定による処分は当然に無効であり、むしろ処分者の不法行為責任が問われるのではないか。現在東京司法書士会に何名の理事がいるのか知らないが、その多数決でこのような規定が決定されたのである。弁護士会ではさすがにこのようなことはないだろう。人権を」侵害する規定とはこのようなものをいうのだが、東京司法書士会の監督官庁である民事法務局長はこのような規定についてどのように評価するのであろうか。
このようなみなし規定に基づいて、それを根拠に会則違反を理由に処分が下され、その処分を無効として会員がその処分につき法廷に無効取り消しを訴え出れば、裁判官はどのような判断を下すだろうか。無罪を証明できない会員が有罪の推定を受け東京司法書士会の量定意見報告に基づき懲戒処分をした法務局長の処分は正しいと判決するだろうか。その違法は明白だろう。真実みなし処分権など択一書式司法書士試験合格者の集団にあるわけないのである。こんな規定が白昼堂々まかり通っている、それが現在の東京司法書士会なのである。
では、以下、司法書士の良心の自由についての考え方を見て行こう。
六、原審の「思想・良心の自由」侵害についての判断に対する反論
原審は、その判決の六十五頁で「控訴人会が多数決によって会員に被災者支援のための金銭的負担を求めることは、これが会員の思想、信条の自由に対する何らかの制約となるとしても、その程度は軽微であって、思想・信条等の人間の精神的自由を根本的に否定するものではない」として本件決議を適法としている。
憲法第十九条の保護する思想信条の自由の侵害について、その保護の範囲を、侵害の程度問題を基準に判断している。そして、その程度は軽微であったというが、その侵害の程度は何を基準としたものであろうか。「会員の政治的、宗教的立場や信条に対する影響が直接かつ具体的であるような特段の事情が認められる場合」として一応の基準を示してはいる。これに対する反論は後に別に述べるとして、その「程度」の判断に関連すると思われるから原審判決六十七頁から六十九頁にかけて、原審が社会通念上も相当であったと判断している寄附金の金額と徴収方法について述べておきたい。
憲法違反とされた別の事件を見てみると、愛媛玉串料上告審判決で問題とされた玉串料は九回分で合計四万五千円であったし、政治団体への寄付が問題となった南九州税理士会事件では、会員に強制徴収した特別会費は会員一名につき五千円であった。ところが被上告人群馬県会が被災者への援助金として強制徴収したのは会員一名あたり十一万円近くの特別会費なのである。又、原審判決は、会員から強制徴収した特別負担金は受託一件当たり五十円の会員からの支払いをもってあてたもので会員への負担は少なく徴収手段も相当であるとの趣旨のことを言っているが、中堅司法書士の年間平均受託件数を三千件と考えた場合、その負担は年間十五万円となるのである。低く見積もってこの金額であるから会員への負担が少ない等とは決して言えないのである。
思想良心の制約を感じさせるのに十分に高額な寄附金であったと言える。原審の言う「その(侵害の)程度は軽微」という判断に思想・信条を制約したことに対する、制約された会員側の精神的苦痛の度合いも含まれていたとするならば、それを軽微であると判断したとすれば、それは全く不当なことになる。
寄附金を強制されたことによる精神的苦痛の度合いや内容は外部からは判断出来ないものであるから、そのような内心の露出強制に繋がる行為を第十九条は客観的に禁止しているのである。原審は「思想・信条」と言い「思想・良心」とは言わない。思想と良心を特に区別せずに良心も思想も広く精神的内面の自由に包括されるというのが通説であるから言葉にこだわりたくはないが、本件の場合には特に被災者への援助と言う倫理的問題が焦点となっているのだから「思想・信条」といわず「思想・良心」というべきであろう。
そして端的に「良心」の制約というべきである。本件の決議をめぐっては、本件の決議が、被災者といっても被災した司法書士への援助に主眼がおかれたものであるから、この決議に対して、司法書士と一般被災市民とを区別せず、被災者平等に義援金を贈与したいという意見も根強くあった。それは群馬県会ばかりにではなく各県の司法書士会会員の意見の中にさえ少なからずあったのである(被上告人提出証拠 兵庫県司法書士会編「神戸発復興に向けて」三十六頁)。この様な、被災者への援助という純粋に無償の贈与行為に、強制会という特殊な団体が枠をはめてその使途を強制した群馬県会の行為は許されない。
憲法の保障する「思想・良心の自由」を尊重することが特に日本人にとって重要であることとその意義、保護すべき範囲と禁圧されるべき行為については前半で述べた。しかし原審は、侵害の「その程度」は軽微として本件決議を適法なものと判断したのである。その第十九条侵害の程度は、金銭的にも精神的にも決して軽微ではないし、そもそも「思想・良心の自由」の侵害問題は、何らかの客観的基準をもって計量されうるというような相対的な問題でもない。よって、原審の判断は、憲法第十九条に違反した違法な判断である。