1 私も高齢者そのものだった
高齢者社会とは今年3月までは、私にとって別の世界の話であった。私は1944年7月13日生まれだから、今年7月には満で67歳となる。であれば立派な高齢者ではないか。
私には子供がいないし、40歳からは司法書士をしているから、家庭上では、子供の成長、学校、結婚などという年齢を確認させるようなイベントもない。定年とか窓際、配転などということもない。家内とは24時間顔を合わせているから、自分がどれくらいふけたのか、太ったのかさえ分からない始末だ。
その私が、最近になって、他ならぬ高齢化社会の当事者、少子化社会の原因者であるということを痛切に自覚させられたのである。その原因は、高等学校時代の同級生の友人が、突然、脳卒中で倒れ、その後見人選任手続きの手伝いを依頼されたことにあった。
この友人の名は、山本一郎君ということにしておこう。この友人、山本君には、実は今年の正月、1月15日に会ったばかりで、その時は、はなはだ元気、聞けば血圧もさほど高くないと言っていた。
ところが2月初旬に、弟の次郎さんから電話があった。それは、兄貴の成年後見人になってくれないかという依頼の電話なのであった。2月22日、私の事務所に来所した弟さんの話によれば、1月17日、一郎が、友人たちと一緒に酒を飲んでいたところ、突然倒れ、友人たちが一郎を病院にかつぎ込んだという。
病院から連絡を受けた母親から、弟の次郎に電話があり、それで次郎は病院に行き本人と面接、その後、病院のソーシャルワーカー、平山さんに、本人の現状と今後について話を聞いた。そして平山さんの指示で太田区役所老人福祉センターの井口さん(社会福祉士)と会うことになった。
一郎の母親は93才で、池上本町の一郎の自宅マンションで一郎と一緒に暮らしていた。時々ヘルパーさんが訪問介護に来ていて、週に何回かはデイケアセンターにも行っていたという。井口さんとの話の内容は、入院している池上医大病院の入院費の支払いとこれからの母親の生活費、それからヘルパーさんとデイケアセンターの費用をどうするかということだった。
山本一郎は独身で、高齢の母親にはすでに亡くなっていて親族もいない。夫とは一郎が高校1年生の時に離婚した。以来、母親が一郎を引き取り、父親が次郎の面倒を見ることになった。大学を卒業してからは、一郎が母親の面倒を見てきていたが、それから40年、いつしか老老介護になっていたのである。
福祉センターの井口さんから、入院費や母親の介護費といわれても、実は、弟の次郎にはそれを支払う能力がなかった。次郎は63歳となるが、次郎もまた独身で子はいない。60歳定年で13年働いた零細企業を退職後、年金が出るまでは働かざるを得ず、現在は、夜警をして生活費を稼いでいる。
住居は、東急線 鵜の木駅近くの母親名義の古びた木造住宅で、そこに一人住んでいる。収入は月16万円前後で、家賃がかからないからやっと暮らして行けるというようなところであった。
次郎は青山学院大学時代にダンサーの修行にはまって大学3年の時に家出をし、アメリカに行ったとの噂もあったが、母方の家族とは、つまり母親と一郎にはしばらく行方が分からず義絶状態であった。
次郎が兄一郎と再会したのは新橋の飲み屋で、聞き覚えのある声の方を見てみれば兄の一郎であった。10年ぶりでの再会、次郎は職を転転し、苦労しているようだった。その時から次郎は鵜の木にある母親名義の家に住むようになった。母親はすでに一郎と同居していて鵜の木の家は空き家となっていた。
山本一郎の病状は、脳梗塞で、側頭葉部分が壊死して記憶機能が破壊されている。その結果としての認知症だが、入院2ヶ月して運動機能は回復して来た。入院当座は寝返りも打てない状態で排便はオムツだよりだった。
山本一郎は、都立小石川高等学校を卒業し現役で早稲田大学商学部に入った。卒業すると一部上場の建設設備系の会社に入り、60歳で、そこそこの退職金を貰い早期定年退職した。
我々が高校に入学した時代、1960年という年は、日本中が日米安保改定反対のデモ行進に揺れていた。日比谷高校を卒業し、東大生だった榊原元財務官、ミスター円は、この頃、国会前ゲートに突入していたはずである。
小石川高校の中庭では、安保反対、樺美智子の追悼集会をしていた。高3だった小沢一郎さんはそれを4階のベランダで眺めていたことだろう。彼の好きなランペドウーサの「山猫」はその頃評判の小説だった。私といえば「自己とは何であるか、自己とは自己自身との関係である」などとキルケゴールの実存主義に耽っていた。そして・・時は流れたー・・♪♪