司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 11月3日にはカンボジア司法省内にあるJICAのオフイスに行きJICA法制度整備プロジェクトチームからカンボジアでの日本の法制度整備支援の現状について説明を受ける予定になっていた。

 ホーチミン空港からプノンペンに向かう飛行機の中で、私はカンボジアで進行中のポルポト政権時代の幹部達、キューサンファンとかヌオンチアとかいった人達に対する国際裁判の行方に思いをはせていた。

 そもそも人道への罪を理由に外国人が、他国の人々を裁くことが出来るのだろうか、これは東京裁判もそうだが、一国の政府が国民に加えた違法行為や損害について裁ける資格はまず第一義的にはそこの国民にあるのではないかと思ったりした。

 ドイツ人はナチスの犯罪についてニュールンべルグ国際法廷とは別に、まずはドイツ国民自身が、戦争犯罪人を審判したが、日本人はそれをしなかった。東京の国際法廷は無条件降伏した日本国が戦勝国によって裁かれる裁判だった。日本人は、ドイツのように、それと並行して、日本人自身が戦争犯罪人を裁くべきであった。自らが自らの惹き起こしたことについて、自ら責任を問うべきだった。それをしなかったことが、戦後日本の深層に流れているある種の曖昧さ、無責任性に影響を及ぼしているのではないかと私は思う。

 カンボジアの現首相フンセンは、かってクメールルージュの地方支部の幹部だった。今回の旅行の現地ガイドのレイさんの両親や兄弟は、ポルポト時代に亡くなっている。アンコールワットのガイド、ブッダさんは、今でもクメールルージュを支持していると言っていた。

 農民からなる兵士たちは、あるときはロンノル政府軍、あるときは王党派政府軍、あるときはクメールルージュの兵士という具合で、それぞれの時に、それぞれの時の軍隊の命令で、仲間の人民を処刑していたかも知れない。

 ポルポト政権と、西欧に伍して自ら帝国主義者として侵略者となった戦前の日本全体主義政権とは、その出発点が違う。クメールルージュ幹部、ポルポト、イエンサリ、キューサンファン、ヌオンチアといった一握りのフランス留学経験者達が求めていたものは、まずは第一に民族の独立だったのである。

 そして決してマルクスは書いていないし、エンゲルスが批判もしていた空想的共産主義者、サンシモンやフーリエの描いた、富者も貧者もいない、完全平等な理想的共産主義をこの世に実現しようとしたのである。 彼らの多くはフランス語で資本論や反デューリング論を読まなければならなかったのだが、彼らが読んでいたのはフランス共産党の機関紙ユマニテだった。

 冷戦下において民族の独立運動は、簡単に共産主義に結びついた。民主主義もいつの間にか社会主義共産主義に含まれてしまうことになった。その辺は、読売新聞会長の渡辺さん始め戦後共産党に入党した日本の焼け跡知識人たちと同じである。

 しかし、それが何故、150万人の犠牲者を生む結果をもたらしたのかということだ。現在のカンボジア人民がポルポト時代を省みるときの感情は複雑で、国際世論や国際法廷の考え方とは、必ずしも一致しないということである。「それぞれの時にそれぞれの時の軍隊の命令で仲間の人民を処刑していたかも知れない」という事実を考えると、50年前の「私は貝になりたい」という映画のなかの、捕虜処刑実行者として死刑になった元日本兵のことを思い出す。

 今、プノンペンは信じられないほどの若者の活気にあふれている。それに比べると爛熟飽和都市東京の若者達はどうだろう。今そこにいる若者たちの表情を見てください。大人達の表情にも輝きはないし、電車の中では皆難しい顔をしている。ポルポト時代が去って20年、カンボジアは今、絶対貧困のレベルから脱け出そうとしている。バイクで繊維工場に働きに出るカンボジアの若者達は、50年前の映画、吉永小百合と浜田光男主演の「キューポラのある街」の世界にいる。未来を感じられる世界にいる。

 ポルポト時代の悲劇を、クメールルージュによる世界史上まれにみる「虐殺」とくくってしまうべきではないだろう。理想の実現のためには殺人は正当化されるという考え方、日本人はこれを非難できるか?理想実現のために人民の真の幸福を願う前衛党を純化するためには内部の敵を排除しなければならないという論理。

 ツールスレン尋問所はプノンペン市内にある。処刑された反党分子15万人のうちの、ポルポトににらまれたクメールルージュ幹部や、教員や技術者、知識人の多くがここに収容され拷問を受け処刑された。ここが解放されたとき生存者はたった7名だけだった。除名ではなく処刑された。

 平安朝の頃、インドシナと呼ばれる地帯とタイも含めたアンコール王朝の末裔達が現在のクメール人、カンボジア王国だ。欧米の植民地主義、帝国主義、マルクスレーニン主義、毛沢東主義、結局、大国の覇権主義と冷戦に揺さぶられ続けてきた小国に生じた悲劇が1970年から5年間に生じた惨劇の原因だと私は考える。

 当時750万人の人口が、今や1400万人と増加している。このカンボジアがさらに発展するためには、国際法廷とは違う場で、クメール人自身が、ポルポト時代を総括しそこから教訓を導き出さねばならないのだろう。



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