古代から今日まで、人間は二つの宗教、天上の神を崇拝する有神論宗教と、人間こそ崇拝されるべき最高価値とする人間至上主義の宗教の間で生きて来た。
人間至上主義の宗教には三つの宗派があってそのいずれもその強弱は別として、今でも生きている。ただその人間の頭脳が作り出した、自己自身に対する存在理由と解釈、信念の基盤そのものが崩れつつあるのではないかというのがハラリ氏の主張であるかに思われる。
それは、過去200年間の生命科学の進歩が、そのような形而上学の足元を徹底的に切り崩しつつあると言うのだ。人体内部の働きを研究する科学者たちは、そこに自由な意思と選択権を持つそれぞれの人間に備わる魂は発見できなかった。生物科学者たちは「しだいに、人間の行動は自由意志ではなく、ホルモンや遺伝子、シナプスで決まると主張するようになっているーーーチンパンジーやオオカミ、アリの行動を決めるのと同じ力で決まる、と。
私たちの司法制度と政治制度は、そのような不都合な発見は(トランプさんや、安倍さんや、ドテルトさん、プーチンさん、森さん、小池さんたちは)たいてい隠しておこうとする(下巻41~42ページ)」。「だが率直に言って生物学科と法学科や政治学科とを隔てる壁を、私たちはあとどれほど維持することが出来るだろう」(41P)。ようするに、帝国と普遍宗教の登場と交換によって2000年間を通してグローバルに統合されて来た人類は、文化や文明、国家が、言葉と文字がその時その時の都合で作り上げられ共有されていたにすぎない大いなるフィクションであったことに気づく。今、ここの窓を開けてみても、国家も世界も、どこにも見えない。言葉と映像と音声を見ているだけのことで意味という想像の産物を消してしまえばそこには何もないのである。
国家予算8割が軍事予算だった戦前の軍国日本の時も、焼け跡の時も、進駐軍の命令下で民主主義国家となったらしい今日においても、私たち人民個々は、それぞれの場所において、まさに「ホルモンや遺伝子、シナプス」による内なる命令に則して環境に適応して来たというのが実態だ。戦前、軍国日本に生きていた日本人は、その環境では、それなりに身の回り5メーターの範囲内で、合理的に生きていた。そして、今もそのようにして生きている日本人の50数%が、言語で飯を食っている人間には、実際理解しにくいことなのだが、安倍総理大臣を支持しているのである。もっともそれでがっかりすることはない。大量の「ホルモンや遺伝子、シナプス」が、物理的状況が変われば、全く反対の選択をすることは大いにありうる。その日がいつ来るのか、それは、今、ここでは論じない。さて、長すぎる前置きだったが、今までの議論を前提に、朝日新聞朝刊新年号の論説を読んでみよう。
「立憲主義」という言葉の数年来の広がりぶりはめざましい。政治の世界で憲法が論じられる際の最大のキーワードだ。中学の公民の教科書でも近年、この言葉を取り上げるのが普通のことになった。 公の権力を制限し、その乱用を防ぎ、国民の自由や基本的人権を守るという考え方――。教科書は、おおむねこのように立憲主義を説明する。」(朝日新聞 1月4日朝刊)
安倍総理が引き起こした刺激的な改憲論議を受けて、にわかに立憲主義という憲法原則が議論されるようになった。しかしそれは一部知識人の間に広がりはしたが普通のサラリーマン、派遣、非正規労働者、すなわち現代人民の圧倒的多数を占めるプロレタリアの間で、議論が盛り上がっているわけではない。
前記論説は、続けて立憲主義という憲法原則、国家存立の原則の「根っこにあるのは個人の尊重だ。公権力は、人々の「私」の領域、思想や良心に踏み込んではならないとする。それにより、多様な価値観、世界観を持つ人々の共存をはかる。ただ、こうした理念が、日本の政界にあまねく浸透しているとは到底いえない」。と述べる。まさに、この根っこにある「個人の尊厳、尊重」という根本原則が、この国の人民の生活の中に全くと言って良いほど定着していないのである。何故なのだろうか。