2017年、明日、1月13日の午前10時30分に東京簡裁で弁論があり、午後2時には明治記念館で恒例の東京司法書士会の賀詞交換会がある。午後6時半からは品川支部の新年会もある。忙しい一日だが、年の初めの御挨拶はして私の長寿を祈ろうと思う。
トランプ大統領の就任も近く、今年は、ナショナリズムが世界を風靡し始め、立憲制と民主主義の価値と意義とその機能の効果が問われることになるだろう。第3次大戦が思わぬきっかけで起こり、地球人類、サピエンスの絶滅があるかもしれない。しかしゴキブリやマウスなど小型動物は生き残って、又、1億年くらいかけて進化し、サピエンスの絶滅原因を研究しているかもしれない。そうで無い限りは、立憲制と民主制、国民主権と三権分立の原則は、その様相を変えながらも結局存続して行くことになるだろう。
それよりも私が常々疑問に思っていることは、何故、20世紀を一時は席捲したあの社会主義、社会民主主義思想が世界的に崩壊したのかということだ。皆さんは何が原因だったと思われるのだろうか。衰弱崩壊して行く姿は各国ごとに様々であったが、結局、「経済成長」と「進歩」、とにかく格差は生じても、それは経済成長、「国民全体の富が大きくなり続けさえすれば」いずれ問題は解決するという「期待」が、どこの国においても共有され、社会主義思想もその国民の「経済成長期待という信仰」の勢いに飲み込まれてしまったということではないかと思う。絶対的真実とか唯一の科学法則があるなどと信じないことが、科学的と呼ばれる思考態度、原理だが、マルクス主義者や共産党員が科学的社会主義を信仰しているところにこそ共産主義自己崩壊の原因があったなどとは、彼らは今でも考えていない。
しかし、それで、経済の成長は永遠に続くのかと言えば、そのことに自信を持てる人は少ないだろう。ローマ会議が1970年、「成長の限界」を発表し、アルビントフラーの「未来の衝撃」がベストセラーになった頃から47年経つ。ドラッカー氏が情報社会の到来を予言してからも大分立つだろうが、この間、スマホが世界の人々の必需品となるなど、一体だれが想像しただろう。
1970年代初頭、アメリカはスタグフレーションに苦しんでいた。一方で、日本は、エズラフォーゲル氏に「ジャパンアズナンバーワン」とか言われて舞い上がっていた。当時は、ハワイへの航空運賃が片道30万円、スエーデンへの航空運賃が片道100万円の時代だった。しかし、その頃に、早くも「成長の限界」が警告されていたわけである。しかし、その後、中国では毛沢東の文化大革命が起り、その結果は、毛大先生の予想に大いに反して、中国は、今やアメリカとならぶ大国、しかも格差大国になってしまった。これも経済成長の結果なのである。
半面、日本だけは、どうやら成長の限界を迎えているらしい。その証拠には人口が減っているではないか。この減少は4~50年止まらない。しばらく前、実は1970年代、私たち夫婦の時代から、この日本国の未来に期待が持てなくなったため子供を生産しなくなったのだ。山本リンダ(今このタレントを知ってる人は年寄りばかりだが)は歌うよ、「どうにも止まらない(^^♪)」。
しかし世界を見れば、成長ポテンシャルのある国は、幾つもある。いわゆるOECD諸国以外は、皆、希望に満ちた明日の国というわけだ。インドもインドネシアもフィリピンも、18世紀から欧米の植民地とされていた国は、ドテルテ的パワーで西欧の偽善ぶりを斜めに見ながら、豊富な樹林を伐採し、資源を採掘し、エネルギーを消費しまくるだろう。これまた「どうにも止まらない(^^♪)」。