司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 消費者、市民の利益を考える。その利益に奉仕する。その市民の選択権を行使してもらうために、いろいろ提供するサービスに工夫をこらし質と価格を設定し同業者間で競争する、こうした発想が司法書士にははなからないようだ。何故だろうか。

 

 学卒で直ちに司法書士になる人は少ない。そこはロースクール出の弁護士とは違う。多かれ少なかれ、社会に揉まれ苦労し、大会社大組織大官庁という無敵の日本国という構造物からはみ出た人たちが競争試験に打ち勝って資格をとったというのが司法書士だ。であれば、苦労してとった自分の資格に誇りを持ちたい気持ちや、獲得した資格で稼ぎたい、金を儲けたいという気持ちは良くわかるし、それが自然であろう。

 

 しかし、提供するサービスは消費者から買ってもらわなければならないのである。そのお客さんである消費者、市民、依頼者の選択権を尊重できず、その結果仕事が来なければ、廃業、低賃金被用者となる、最悪破産の運命は当然の報いだ。消費者、市民の「人格の尊厳、幸福追求権、選択の自由」すなわち人権を、まず理解できないものは、司法書士ばかりでなく弁護士も又、市場から追放される。

 

 司法書士が人権を考える、以下、上告理由書第3回。

 

 群馬義援金訴訟 上告理由書 第3回

 

五、憲法第十九条の法律論

 
 憲法第十九条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」としている。とするとこの十九条は、具体的に人の内心の作用のいかなる範囲のものまでを保護するとしているのであろうか。憲法は、内心の自由を保障するものとして、この十九条のほかに第十四条で「信条」、第二十条で「信教」、第二十三条で「学問」の自由を規定している。思想の自由を含む本条は「人間精神の自由に関する包括的・一般的な規定であって、その具体的発現である信教の自由、表現の自由、学問の自由等に対して原理的・根底的な地位に立つもの」(注解憲法上三百九十七頁)と学説は言う。これにつき学者は第十九条中の良心について「千九百四十九年のドイツ連邦共和国基本法四条一項の『信仰・良心の自由、ならびに宗教および世界観の告白の自由』に言う『良心』は、学説・判例上、一般に・・内心の精神活動の自由一般を意味する、一つの独立な世俗的基本権であると解されている」(憲法学三 人権各論一  百一頁 葦部信喜)とし、思想と良心との区別については「『良心』は人の精神作用のうち倫理的側面に、『思想』はそれ以外の側面にそれぞれかかわるものと解される」(佐藤幸治 憲法 四百八十四頁)としている。本件で問題とされるべきことは、法律に根拠を置く公的団体が、会費という形の強制力をもって、災害での特定被災者への援助金をその構成員に多数決により支払わせることが出来るかどうかということである。すなわち、善意による無償贈与を強制出来るか、つまり一定の倫理観、良心の露出を強制出来るかという問題である。「思想良心の自由」は、外的に表現されず内心にとどまる限り、他人の権利を侵害することもあり得ないし、またその様な内心を直接支配することも出来ない。従って第十九条の保障が実際に機能する場面は、この内心の思想良心が、外部に露出した、露出されたすなわち露出させられた場合に限られる。露出の自由は、表現の自由等他の憲法規定によっても保護されているから第十九条の保護規定が直接適用されるのは、この内心の思想良心の露出が強制された様な場合である。つまり憲法第十九条の実質的な内容は、(1)思想良心を強制的に表明させることの禁止(踏み絵的行為の禁止)・・沈黙の自由権、(2)思想良心に反する行為を強制することの禁止(良心的兵役拒否の法理)(3)思想形成の自由の保障(4)思想の故に罰せられることなしの原則等によって構成されている(有斐閣双書 憲法学二 十二頁参照)。もっとも、たんなる知識や事実についての知見に属する事柄は、内心の精神作用には属するものであるけれども、直ちに憲法十九条の保護の対象とはならないとするのが学説、判例の見解である。例えば、裁判や国政調査権の証人として事実の表明を強制される場合などである。その理由は、この強制表明の対象があくまでも自己の知りえた事実・知識の表明の強制にとどまっているからであって、思想(論理的な価値判断の体系)や良心(倫理的な価値判断の集積)の強制表明とは言えないからである。さて、本件の被災者援助金強制拠出決議は以上のどれに該当するかと言えば(1)の沈黙の自由権と(2)の思想良心に反する行為を強制させることの禁止原則を侵害したものとの二つと言える。本件決議は、一審判決の言うように、被災者に援助金を無償贈与すべきか否か、贈与するとしてもその方法の選択はどれを選択すべきか、贈与するその金額は幾らにするべきか、この様な問題は、本来、個人それぞれが決定すべき問題であって、援助行為の内容と選択の如何は、すぐれて個人の良心に委ねられるべき問題であり、これを団体が決議によって強制出来るようなものではない(現地被災市民や被災司法書士に対する援助金は、兵庫県司法書士会を通して贈与すべきか、赤十字を通して支払うべきか、それとも自治体にたいしてか、どれにするかの会員の評価と判断、結果としての選択権も、個人の選択権として個人に帰属する固有のものであって、この選択を司法書士会が公的団体であるという理由をもってしても強要することは出来ないし、侵害する事も出来ない。又個人の内面に深く介入するその様な強制が司法書士会の行為の目的に含まれるはずもない。国会の議決した法律でさえこれを侵害し人の心の内面に立ち至れば無効となるのであるから当然のことであろう。選択を強要すれば憲法十九条違反となる。この権利を侵害した事のその結果は、震災四年後に群馬県会を初めとして阪神・淡路大震災災害復興を名目に全国から集められた約一億四千万円の拠出金の内、平成十一年現在の時点で約九千万円、拠出金合計の約六十五%が,被災現地の復興に有効に使われず余ったままという驚くべき結果をもたらしているのである)。つまり被上告人である群馬県司法書士会執行部は、被災者への援助という決議による強制支出によって、本来個人に委ねられるべき個人のその贈与手段や金額等の選択と行為、それを支えている個人の良心の程度と度合い、さらには司法書士会への忠誠度を、一定額の金銭の強制徴収という形で露出させる事により、会員の憲法第十九条で保障される基本的人権を侵害したのである。慈善や奉仕、危難に遭遇した者達への義援等の意思は、個人の良心と倫理観に関わる優れて個人の内面に立ち至る問題なのであって、何人もこれを強制する事は出来ない。もしこれを強制すれば、一時の目的を強制者が達成したとしても、強制された個人の自主的自発的意思はかえって侵害され、健全な良心と倫理観の個人の内面における自律的な成長を妨げてしまうことになる。つまり国民の自律と独立を根底においてささえる良心と倫理観に、強制力をもって介入する事は、個人の尊厳という立国の精神を踏みにじることにもなるのである。冒頭で繰り返し述べたように、憲法第十九条の保障する「思想・良心の自由」の価値の重要性を考えれば、思想良心の自由を侵害する様な問題について、多数決をもって賛否を問いその内心の意見を表出させることそれ自体が、第十九条違反であると言える。人格の尊厳と自律性に直接影響を及ぼす第十九条の侵害についてはその様に厳格に解釈、つまり考えられなければならないのである。



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