旅の最後の日、会員XとYと私の三人で、姉弟の運転する「トクトク」、バイクにリヤカーをつないだような屋根付の車に乗って、シェリムアップ近郊の農業地帯をドライブした。涼しい風と田園の風景、牛や山羊達がこちらをぼんやり見ている。内戦の跡は、もう消えていた。英語学校に通っているという姉がガイドする。会員Xが姉と話す。私はもう今は、英語を話せない。正直言えば、疲れるから話したくない。カンビールを飲んで涼しい風を浴びながら、私はすっかり酔っ払っていた。
カンボジアから帰って以来ポルポト、本名サロトサルの伝記を読んでいるうちに、フランス帰りのポルポト以下、クメールルージュ幹部たちは、毛沢東の人民公社と大躍進計画を真似したわけではないし、又、マルクス主義などとも実は縁のないユートピア計画を実行していたのだということが分かった。毛沢東がスターリンの言うことを聞かなかったように、ポルポトも独自路線をとっていた。
マルクスは、労働者階級に民族問題など生じようもないのだから、万国のプロレタリアは団結せよと言った。それが第1インターナショナルだった。第1次大戦が起こるや、労働者階級とその政党は、愛国主義者となり、労働者相互が殺しあうことになった。マルクスは、労働者階級が政権をとり、資本家を壊滅させ、計画経済の手法で社会主義社会を発展させれば、国家は必要が無くなり、搾取するものも搾取されるものもいなくなるともいった。このユートピア構想が、20世紀の知識人を大いに悩ませたのである。
このマルクスの理想、これが何時から、どのように変形していったのだろう。レーニンが指名した後継者トロッキーは、まだこのマルクスのユートピアを共有していた。実際にレーニン以下ボルシェビキ党は、帝国主義戦争を内乱に持ち込んで革命に、つまり労働者階級を代表するボルシェビキ党の(実際は中産階級出身の知識人党にすぎないのだが)権力奪取に成功した。しかし、この頃は、同時に先進国ドイツやフランスで革命が起こり政権奪取した労働者階級等は、歴史初のロシア革命の成功を受けて、それを助けてくれるはずだった。
しかし、そうはならず一国社会主義を唱えたスターリンが、トロッキーを追放して権力を握った。そして革命を防衛するために、スターリンは内部の敵を探し摘発するという名目で、トロッキー以下スターリン反対派を追放し、さらにそれは歴史に残る大粛清に発展する。
その根っこは、スターリンも民族主義者であったから、スターリン時代においても、ロシア人によるカチンの森の大虐殺やユダヤ人に対するポグロムも行われた。スターリン、毛沢東、ポルポトに共通するのは、レーニンの革命組織論を忠実に実行したことだ。それは、愚かな大衆に勝る知性を持った職業革命家の組織が、目覚めぬ労働者階級にかわって権力を奪取して、国民を指導するというものだった。
その組織は、中央集権的組織であり、下部は上級に従い、分派を許さず、鉄の規律をもった秘密組織なのであって、末端の組織は細胞と称され、クメールルージュではセルと呼ばれた。共産党はアンカーと呼ばれ、カンボジア民衆の間では神がかった存在だった。
その共産党の細胞の構成員が、大衆団体や大衆組織に入り込んで自由主義、資本主義にたいする反対派を作り革命情勢を導き出すよう活動するのである。秘密組織であるから、党員は皆いくつもの偽名を使う。レーニンもそうだしトロッキーもそうだしポルポトも偽名である。
さらに、この3独裁者、スターリン、毛沢東、ポルポトに共通するのは、処刑のほかに飢饉も含めれば何百万人もの犠牲者を生み出し、平然としてそれが正義の当然の犠牲者と考えていたところだ。
このような組織の政党を共産党という。彼らにとっては、社会民主主義者はブルジョアの隠れ蓑で、真の正義は共産党にしかないと信じている。他の価値観を排除し、党上級公認の思想以外の持ち主には自己批判を迫る。
その結果、共産党では、粛清と反対派の追放が当然のようにして繰り返し起こる。日本共産党も同様で何時も除名騒ぎを起こしては三流ジャーナリズムを喜ばせている。日本共産党の細胞は今では支部と称している。