〈どんなに正当性のある主張も採用されない状況〉
正直、私は、福島国賠訴訟では勝訴もあり得ると読んでいた。最高裁大法廷判決が何を言おうと、正論をぶつければ、独立の気概のある裁判官であれば私らの主張を受け入れてくれるのではないかという期待を抱いていたのである。結果は、その期待を見事に裏切るものであった。あそこまで非論理的理由付けで負かされるとは思わなかった(その判決批判は司法ウオッチ2015年1月から6月までに掲載)。
しかし、私は、この福岡高裁庁舎玄関の上のスローガンを見たとき、2011年11月16日最高裁大法廷裁判員制度合憲判決に見る裁判員制度維持にかける最高裁判所の執念が全国津々浦々の裁判官に浸透し、こと裁判員制度に関しては、それを否定し或いは弱体化させる主張は、それがどんなに正当性のあるものであっても、到底採用されるものではないことを、改めて思い知らされたのである。
いわば、現在の最高裁を頂点とする司法は、こと裁判員制度に関しては一つの全体主義国家の司法の様相を呈していたということである。私は何と空気の読めない愚かな行為をしたものかと自嘲したくなった。この国賠事件の控訴について、依頼者が私を見限ったのも、むベなるかなとさえ思った。それが今の裁判所の現実の姿である。
〈バイアスがかかる憲法判断〉
しかし、最高裁を頂点とする裁判所は、その現実のままで良いのであろうか。問題は、裁判員制度という、戦後最大の司法改革に直面し、一定期間の広報義務を課された最高裁とは言え、その制度が施行された後においても、各地の裁判所に前述のような制度の存続推進の看板を掲げさせ、或いはそれを黙認し、その推進を図ることは許されるのであろうかということである。
日本国憲法のもと、裁判所は違憲法令審査権を与えられた(81条)。国会、行政官庁、地方公共団体等の定める法令は、全て裁判所の憲法判断の対象になる。裁判員法とて然りである。その判断に際し、国策であり、最高裁がその成立に関与したからと言って、その法令の憲法判断にバイアスをかけてはなるまい。
ここで、現憲法のもと、司法とは何か、司法を担当する裁判所は何をなすべきであり何をしていけないかという根本的問題について、考えなければならない。