〈無理な合憲判断〉
最高裁は「参政権同様の権限」の枕詞に「国民主権の理念に沿って」と記述しているけれども、かかる意見は学説としては少数派に属する(拙稿「裁判員制度を裁く」司法ウォッチ2011年9月[第1回])。国民参加が民主主義に基づく国民の権限だということにでもなったら、裁判の全ては素人参加がなければ国民的基盤がないことになってしまう虞があるし、国民が参加を要求すればそれを拒否することはできないことになりはしまいか。その点からしても、この最高裁の判示は到底是認し難い。
学説の中には、国民が裁判員となることが国民の義務であることを認めたうえで、それを憲法上何とか正当化しようと努力をする人々もいる(緑 大輔「裁判員制度における出頭義務・就任義務と「苦役」」一橋法学2003年3月10日、同「裁判員の負担・義務の正当性と民主主義」法律時報77巻4号p40、柳瀬 昇「裁判員制度の憲法理論」法律時報81巻1号p62ほか)。
その結論は到底承服できないけれども、問題に真摯に向き合おうという姿勢そのものは評価し得る。最高裁は、そのような合憲論が通常とるべき論法を回避して、裁判員職務の独自の無理な合憲論を展開したということである。
〈辞退による制度先細りは確実〉
裁判員の職務が苦役ではない、参政権同様の権限だ、辞退も柔軟にできる、と言われたら、裁判員候補者に選任された一般国民はその言葉をどう受け止めるだろうか。
2012年1月の最高裁「裁判員制度の運用に関する意識調査」(最高裁ホームページ登載)における「あなたは裁判員として刑事裁判に参加したいと思いますか」との質問に対する回答は、「あまり参加したくない」42.3%、「義務であっても参加したくない」41.1%、その合計は83.4%であり、これは前年の84%とほぼ同率、前前年80.2%より増えている。「参加したい」「参加しても良い」の合計は、今回は15.5%、前年は15%、前前年は18.5%である。
つまり、裁判員制度が実施され、それに関する報道が流され、有意義な良い経験だったと言う多数の参加者の声を聞いても、参加意欲は低下し、参加に消極或いは否定的な人の数は全体の5分の4を超えている。
この流れは、この統計の回答者が2000人前後であったとしても、確かな傾向と解し得る。何となれば、この裁判員制度は、元々国民の求めたものではなく、また刑事裁判を改革・改善することを企図して制度化されたものでもないからである。また、この制度がなくても、国家的にも国民の立場からしても何の問題の生ずることもない、つまりこの制度は元々妥協の産物として突然に現出したものであって、立法事実なるものは全くなかったからである(ダニエル・フット「名もない顔もない司法」NTT出版p276)。
このような現実を前提に本判決理由の及ぼす効果を見れば、裁判員候補者のほぼ6人中5人が公然と、私は参政権と同様だという裁判員参加権は行使しません、辞退させていただきます、旅費日当という往復のお駄賃なんかは要りません、ということで、この制度は先細りになっていくことは確実と言える。
参加したい或いは参加しても良い参加者のみによって裁判員裁判が仮に継続して運営されることにでもなれば、裁判員法1条の掲げる、国民が「刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進と信頼の向上に資する」という仮説は脆くも崩れてしまうことは明らかである。