〈「私の視点、私の感覚、私の言葉」での参加〉
裁きに関してよく述べられる新約聖書の言葉がある。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」、「自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向って『さああなたの目にあるおが屑を取らせて下さい』とどうして言えるだろうか」(マタイ福音書7章)。
法律には疎い裁判員の裁判関与は、憲法や法律という物差しで物の長短を計るものではない。最高裁を含め法曹3者が裁判員制度のキャッチコピーとして使っていた「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」というフレーズは、裁判員集めには確かに格好な表現かも知れないが、本来、裁判では許されないことではなかろうか。
裁判員も裁判官であれば憲法76条3項に定める「その良心に従ひ独立してその職務を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」べきものであり、憲法でも法律でもない「私の視点、私の感覚、私の言葉」で人が裁かれたら、司法は崩壊することとなろう。我々が通常裁判官と称している者が、憲法や法律を度外視して裁判をしてよいはずがない。裁判員も裁判官であれば、私の視点・感覚・言葉での参加は許されない。それはまさに、法によってではなく、人が人を裁くことであり、人倫としても許されない(小堀桂一郎「裁判員制度の実施を許すな」2007.11.13、産経新聞)。
最高裁大法廷判決(2011.11.16)は言う。「裁判員制度は、司法の国民的基盤の強化を目的とするものであるが、それは国民の視点や感覚と法曹の専門性とが常に交流することによって、相互の理解を深め、それぞれの長所が生かされるような刑事裁判の実現を目指すものということができる」と。この判示は、上告趣意とは無縁の、最高裁の独演的発言であり無意味なものであるけれども、前記のキャッチコピーを容認する表現の部分について言えば、その判示は、裁判員は「国民の視点や感覚の提供者」であることに存在意義があり、法曹はその国民の視点や感覚をくみ上げて裁判をするという、いわば裁判員を裁判官の補助者のようなイメージで捉えているようである。
しかし、裁判員法は、裁判員について、独立してその職権を行うとし(同法8条)、評議・評決を法曹と対で行うことと定めている(同法66条、67条)のであって、その職務は正に裁判官である。単なる国民の視点や感覚の提供者であってよいとかあるべきだなどとは規定していない。
〈「よかった」経験の疑問〉
裁判員の裁判関与は、前述の裁判員経験者が述べた「知識のないのに人の人生を左右する判断」を下すことである。「よかった」などと評し得るような経験であってはならず、むしろ苦しみ悩むべき経験であり、現に福島国賠訴訟の原告のように深刻に悩み苦しむようになってしまうこともあるのであって、他人の「よかった」とか「とてもよかった」などという経験談に踊らされて参加するようなことではない。あるいは、「よかった」経験と感じた人々は、裁判員としては好ましい人ではないのかも知れない。
〈人が人を裁く〉
有名な新約聖書のエピソードがある。律法学者たちやファリサイ派の人々が姦通の女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で撃ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか」と。これに対するイエスの答えは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまず、この女に石を投げなさい」であった。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、イエスひとりと真ん中にいた女が残ったというものである(ヨハネ福音書8章)。
国家には司法権があり、社会の秩序の維持に貢献する裁判官がいて、その職務を担当する。罪のない者だけが人を裁き得るということになれば、裁判官も罪ある人間だから、国家は裁判ができないことになる。しかし、だからこそ、憲法76条3項がある。そこで定められている、裁判官の個人的視点や感覚で裁いてはならない、良心に従って憲法と法律にのみ拘束されて裁判をしなければならないという命令が生きることになる。さきほどのキャッチコピーを裁判員制度の宣伝に使うなどということは、とんでもない誤りである。大法廷判決の判示も、ことの真実を履き違えている(玄侑宗久「裁判員は日本人の美徳を壊す」[文芸春秋、2009.2])。
「よかった」経験を共有化して裁判員制度を推し進めようなどという魂胆は、到底容認できることではない。