司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 以前、ある弁護士会の機関誌が行った、法曹人口の増大と質の確保をテーマ、にした座談会の中で、質を満たさない法曹を市場に出すべきか否かについて、出席者が問われるシーンがあった。三人の出席者のうち、あるベテラン弁護士は、「誰もが必要だと考える質を満たさない弁護士は、そもそもマーケットに出すべきではない」とし、また、出席したジャーナリストも、資格への信頼に着目し、個々のユーザーの検証を省くという社会効率の機能が資格にはあるとして、「出すべきではない」に同調した。

 

 しかし、もう一人のやはりベテラン弁護士の回答は、前二者とは異なるものだった。彼は、当時の日弁連会長が以前「ロースクールが出来て果たして法曹の質がどうなったかは、そこの出身者の法曹を何年かかけて、その後の成長を見ないと分からない」と述べたことに触れた上で、次のように語った。

 

 「法曹になった将来を見越して出すべきではないとどうやって判断するというのか」
「マーケットに出すときのセレクト機能は、唯一テストしかなく、そんなに当てにならない。そうすると、問題はマーケットに出てしまった後、これをどうするかだ」

 

 いわゆる日弁連内の「主流派」に属する、この弁護士の発言と、彼が引用した当時の日弁連会長の発言は、今にしてみれば、現在に至るまでの、法科大学院制度を擁護する日弁連主導層のスタンスを象徴するものにとれる。「とりあえず社会に放出せよ」というのは、修了者の司法試験合格率の伸び悩みが、決定的になった時点で、法科大学院関係者から言われ出した、司法試験批判をはらんだ論調に一致する。

 

 また、司法試験の選抜機能、資格の役割よりも、マーケットの判断、そこでの競争・淘汰に、質の確保を委ねよ、というのは、この「改革」の増員政策肯定論の根底に流れる考え方だ。日弁連会長はロースクールの成果を、将来にならなければ分からない、とし、「主流派」弁護士は、司法試験が社会放出の是非を決定付けるほど、当てにならないと言ってしまっているのである。まさに、「失敗」がいわれ、存在意義が問われている法科大学院側に、これほど有り難い論調はない。

 

 こうした論調は、大きく二つのことを軽視、もしくは無視するスタンスのうえに成り立っている。一つは資格の役割。前記ジャーナリストがあえて指摘した、社会効率機能。いわば、弁護士バッチを付けている以上、一定の質が担保されているという形の意味を、早々に放棄し、あたかもマーケットの選別がそれに変わるような描き方をする。しかし、現実的にそこに待っているのは、情報の非対称性があるなか、利用者にとっての困難な選択と、その結果に対する自己責任である。むしろ、その困難さと、弁護士資格そのものの社会的影響力がゆえに、厳格な資格制度があり、また、その厳格さを目指すべきであるということ、そのものが無視されている。

 

 そして、もう一つは、実害を伴う期間だ。社会放出とマーケットでの淘汰による質の均一化が進むとして、それはいつまで続き、いつ果てることかは皆目分からない。その間、利用者は犠牲になる。それでも厳格資格制度による事前規制よりもよい、ということを、彼らは言っていることになる。

 

 ロースクールは新法曹養成の中核を担い、それは法曹量産計画に耐え得るだけの、そして司法試験だけ関門としてきた、これまでのレベルを下げることなく「質」を維持するものとして、当初、導入されたはずだった。しかし、その成否は、司法試験合格率でも、現在までの修了者の評価でもなく、未だ決着していない、修了者の未来の評価にかかっている、と前記日弁連会長は言っている。

 

 だとすれば、「予備試験」を「抜け道」などと称し、制限する方向でとらえるなどということは、金輪際できないはずだ。いうまでもなく、将来の予備試験組法曹の評価によっては、本道である法科大学院というプロセスを上回る「価値」、逆に言えば、修了の司法試験受験要件化まで課しているプロセスの無意味性を明らかにするかもしれないからだ。

 

 司法試験の選抜機能や資格試験の役割に一番こだわっていいはずの当の資格者、しかも法科大学院制度によらず、旧試体制でこの世界にきて、現在に至ったベテラン弁護士が、なぜ、このような立場に立つのか――。いまや会員のなかから、なぜ、そこまで付き合うのか、という言葉が出ている法科大学院制度への肩入れには、自己目的化としか説明できない、無責任な実態がある。



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