司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 

 2014年5月に、福井地方裁判所裁判長として、関西電力大飯原発の運転差し止めの判決を下し、定年退官後、原発の危険性を訴える活動をしている樋口英明氏へのインタピュー記事を、ニュースサイトの日刊SPAが掲載している。タイトルは「なぜ、最高裁判決は保守的なのか?『原発をとめた裁判長』が伝えたいこと」

 このインタビューでの、同氏の司法の現状に対する発言は、いくつかの問題の核心をつき、示唆に富むものが含まれている。タイトルにある裁判官の保守性に関して、判決の傾向として「最高裁判所が一番政府寄り、高等裁判所が次に政府寄り、地方裁判所が一番リベラルという印象」としたうえで、従来「ヒラメ」といわれてきたような、上の顔色を気にした出世志向との関係ではなく、むしろ「先例主義」にあり、無難な事件処理に流れる傾向との関係を指摘している。

 また、最高裁判所のほとんどの裁判官の裁判実務経験は20年を超えることはなく、司法行政畑で評価された人が選ばれている現実を問題視。最高裁判所は裁判所の中でも一番重要な位置にあり、判実務の経験が豊富な裁判官から選ばれるべきだとして、この点は、「司法改革において改革しなければならない点」だったと括っている。

 その彼がもう一点、司法改革に触れたところがあった。それは裁判員制度についてである。彼は、次のように述べている。

 「司法改革の目玉の一つは裁判員制度でしたが、なぜそれが導入されたかというと、多くの冤罪事件によって、刑事裁判が国民の信頼を失ってしまったからです」

 「そこで、冤罪事件を防ぐために、国民にも参加してもらう形で審理をするようになりました。しかし、警察・検察が被告人にとって有利な証拠を隠してしまえば、残念ながら冤罪事件は出続けます。本当に司法改革をしたければそこから変えないといけない」

 「無罪を争う裁判になったら、検察官は手持ち証拠を全て開示しないといけないというようにルールを変えれば済む話でした。取り調べの可視化も冤罪防止の一助になるでしょう」

 「司法改革のあり方はもっと本質的なところから考えなくてはならなかったのに、完全に間違った方向に行ったと感じています」

 この結論部分、つまり冤罪防止策としては、検察官の手持ち証拠の開示のルール化が必要で、むしろそこを司法改革の対象とすべきだった、という点については、もっともな指摘である。ところが、気になったのは、前段の裁判員制度への認識である。

 彼は、「多くの冤罪事件によって、刑事裁判が国民の信頼を失ってしまった」というが、その国民感情が裁判員制度を導いたわけではない。まして、その不信感から、国民が職業裁判官には任せられない、といって、国民の司法参加を求めた、という事実もない。あくまで多くの国民は、司法参加に消極的で、もちろんそれ百も承知の国が、それでも刑罰まで設けて、強制動員をかけて、裁く場に引っ張り出そうとしたのが、この制度である。

 この論調は、これまでも時々、制度推進派の中から、事実を歪める形で言われてきたことである。前段のような、司法の課題について、鋭い指摘をする彼にして、なぜか裁判員制度について、このようにとらえていることに強い違和感を覚える。

 もっとも裁判所当局の言い分として、「国民の一般常識を裁判に反映させる」ということが繰り返し言われて来たが、国民の直接参加は、必ずしも現行裁判の欠陥とか、それへの危機感を前提に、裁判所から国民に「お願いして」参加してもらうというニュアンスでもない。民主主義的な制度で先進国では実現している制度で、半ば国民のためにもなるから協力すべき、といった内容である。そうでなければ、参加自由を原則とせず、刑罰によって参加を求める制度設計と、逆に矛盾する。

 彼の文脈が、裁判員制度は国民の司法への不信により、国民が求めたものと解されるのも、その不信感と判決内容に危機感をもった裁判所が国民にお願いしたものと解されるのも、いずれも事実に反していることになるのである。

 さらに言ってしまえば、現状では国民が参加しても冤罪は防げないという彼の主張ならば、そもそも国民参加よりも、彼のいう検察官手持ち証拠の開示と、職業裁判官の意識改革で事は足りる。いやむしろ、国民の直接参加に一貫して消極的な国民の意識からすれば、むしろそちらの方が支持も期待も集まるかもしれない話なのである。

 こういう制度を推進した側の、ある種の矛盾に触れる度に、では、なぜここまでして国民の動員をこの「改革」は強行したのかというところに行き着いてしまう。いわゆる米国から日本への規制改革要望である、いわゆる年次改革要望書で2004年に、裁判員制度導入を含む司法改革が盛り込まれたことを挙げる意見もある。それもさることながら、なぜ、前記した趣旨を掲げながら、あたかも憲法にも規定のない新しい義務として、国民の司法参加に強制性をもたせたのか(逆に、消極姿勢を承知であえて強制という形をとったのか)を考えると、そこには国家の強制に対する国民の耐性実験としての、この制度の正体が浮かんでくる。全く別の、私たちが知らされていない目的が、推進派の矛盾の中から、伺うこともできなくないのである。

 前記記事引用部分、彼の最後の言葉――、改革すべき司法の本質を考えず、完全に改革は間違った方向に行ってしまったのだ、と。あるべき司法改革としては、道を外しているという指摘。いずれにしても彼が言いたかったのが、この点にあるのだとすれば、前記裁判員制度導入をめぐる疑問も含めて、改めてその通りであるといわなければならない。



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