刑事司法の恐ろしい現実である。5月24日に水戸地裁土浦支部で言い渡された無期懲役が確定した2人への再審無罪判決。新聞には「44年ぶりの名誉回復」といった文字もあるが、一言で「回復」とくくるには、あまりにも長い「名誉侵害」の期間である。
この膨大な被害は、まさしく人災である。代用監獄、自白の強要、そして証拠隠し。これまでも問題がしてきされてきた誤判・冤罪の構造のなかに、どっぷりとつかった事件である。
この間、裁判員制度をにらみ、2004年の刑事訴訟法改正で証拠開示制度はできたが、郵便不正事件での証拠改ざんで明らかになった検察の恐るべき体質は、こうした誤判・冤罪の刑事司法の環境が、人災としてそれが生まれるものとして、この国に存在し続けていることをはっきりと示している。
制度の問題をもちろん議論しければならないが、その制度をかいくぐり、悪用し、人災を作った人間たち、また、それを許した同じ組織と世界の人間たちがいたことを考えなくていいことにはならない。制度が悪かったでは、済まない。
大マスコミの取り上げ方は、そのスペースの割き方に比例せず、こうした実態についてまだ抑制的な印象すらある。不信感ということでいえば、前記検察不祥事にしても、突出した一例とは誰も思わない。何が何でも有罪するために、手段を選ばない姿勢が、ずっととられてきたと誰もが思っている。死刑や無期懲役事件で再審無罪が度々大きく社会に報道されるが、全く日の当たらない刑事裁判で、この社会の人間が知らないところで、一体何が行われ、そしてどういう結論が既に出されてしまったのか――想像しただけも、めまいがしてくるような不正義の疑惑である。そこを、大マスコミはまだ抑制的に国民に伝えている。あるいは国民のそうした感情を抑制する目的をもって。
しかし、いうまでもなく、決してそれが問題の大きさを矮小化することであってはならない。制度改正の議論は、そのスタートに現実に対する強い反省に始まらなければ、結果は十分なものになるわけもない。
実は、今回の司法改革の議論のなかで、極めて不思議なことがある。この国の司法制度の改革に当って、ある意味、まず最初に、そして徹底した姿勢で臨んでしかるべき誤判・冤罪問題への対策が、実は一顧だにされてこなかったことである。法曹界では、これを謎という人もいれば、今回の司法改革の最大の欠陥と評する人もいる。
無辜を処刑しかかったこの国の司法の在り方を、司法制度の改革のまず一番にもってこないおかしさを、改革推進の旗をふる大マスコミも法曹関係者も指摘しなかった。
「国民の司法参加」の美名のもと、国民の常識を反映させて、裁判がよくなるという触れ込みで、国民に強制動員させる裁判員制度もまた、根本的にこの国の裁判の反省に立つものではないことはもちろん、むしろ、基本的な形は温存されるとの批判があるのをみても、いわゆる官僚司法にメスを入れることに腰が引けた、今回の改革のはっきりした特徴のようにみえてくる。
郵便不正事件での検証の結果、検察側の「再生」のキーワードは、「引き返す勇気」なのだそうだが、「勇気」をもたなければ、引き返せない現状があることを、われわれは、深刻に受け止めなければならない。
足利事件再審無罪で、検察内部にも全面化可視化は時間の問題という見方も流れたというが、今回の布川事件でそれが決定的になったとも伝えられている。
そのことの意味は重要であっても、制度を変えるだけでは足りない現実を認識しなければならない。人災は制度を運用する人によって発生した。そこに筋金入りともいえる体質が存在しているとみて、ことに当たるべきである。
司法制度改革審議会の最終意見書をバイブルに進められてきた改革を見おす「第2次司法改革」が叫ばれているが、いわゆる誤判・冤罪問題は今回取り上げられるだろうか。問われているのは、司法の正義、否、徹底した正義にこだわれない司法の姿であることを法曹関係者も社会も自覚しなければならない。