司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 〈干渉は許されない学問研究〉

 そもそも日本国憲法23条の言う「学問」とは、何なのでしょうか。「学問」という言葉について手許に置いてある「角川必携国語辞典」は、「事実・真実を知り、道理の発見のしかたを習うこと」と解説し、「広辞苑」は「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法。哲学・史学・文学・社会科学・自然科学などの総称」と解説しています。

 これだけでも、それなりに学問のイメージは分かる気がします。小学生が文字を習ったり、算数を習ったりするものとは違うのです。新しい知識や技術を身に付けることを学習と言いますが、学習の自由など、憲法で態々保障する必要はありません。憲法が保障しているのは、学問研究の自由なのです。

 司法試験受験生の答案の中に、「憲法23条は、学習の自由を保障したものである」というのを見て、言葉は悪いですが「ミソとクソ」の区別がつかないレベルだとがっかりしたことがあります。このレベルでは、裁判官や検察官や弁護士は務まりません。国会議員としても不足です。

 何故、日本国憲法が態々貴重な一カ条を、学問の自由の保障に割り当てたのかを考えていないのです。「なぜ?」と言う思考方法が欠如しているのです。暗記勉強中心の、偏差値教育の欠陥を露呈しています。学問は「なぜ?」から始まります。ですが、暗記勉強は、この「なぜ?」を失わせる危険があります。ここが暗記勉強の落とし穴です。

 「註解日本国憲法」は、「Article23.Academic freedom is guaranteed」と英文で書き添えてあります。日本国憲法は、占領下で創られたもので、マッカーサー草案があるほどですから、英文があるのも不思議ではありません。当然といえそうです。

 日本国憲法23条が言う「学問」の意味を理解するためには、「Academic freedom」とは何かを確認してみることも意味がありそうです。手許にある英和辞典には、「学問研究の自由」と書かれています。ここで言う「学問」とは「学問研究」を指すと断言してよさそうです。日本国憲法が保障している「学問の自由」は、「学問研究の自由」なのです。学習の自由など憲法が保障しなくてもよい分野です。

 そう考えれば、「註解日本国憲法」が、「學者、研究者きその領域における専門家であり、領域において指導的立場にあるいわば『選ばれたる人』であるから、通常人を對象とし、通常人の平均的な水準に立脚する政治や行政が、その判斷に基いてみだりに干渉すべきではなく、國家も社會もその獨立性を尊重すべきである」と言っている意味がよく理解できます。

 ですから、「学問研究に政治家など、学問の素人が口を挟んではならない」と言うことになるのです。裁判所だって、学問研究のレベルによっては深入りすべきではない領域があると思います。特に裁判官には、心してほしい点です。

 政治家や行政は、通常人の平均的な水準、つまり常識に従って行動すればよいのであり、権力を持ったからといって、専門家であり、その道の研究者に対して、口出し出来るはずなどないのです。学問研究の分野は、そのような干渉は許されないのです。

 この点は、裁判所といえども、同じではないでしょうか。裁判所も口出しできない領域がありそうです。法廷は学問研究を論じる場ではありません。裁判官も弁護士もそんな能力も資格もありません。裁判は、通常人の平均的な水準に立脚すべきです。

 学問研究は、その道の専門家であり、その領域において、選ばれたる人が研究する領域です。選挙で選ばれた人が出る幕ではないのです。司法試験に合格したというレベルでも、入り込めない領域です。立法も行政も司法も、通常人の平均的水準に立脚して行われるべきであり、常識を超える学問研究は、その専門家に任せるべきであり、政治が干渉してはならないのです。


 〈人類の歴史的体験に基づく経験則〉

 学問研究者の人事については、学問研究機関の自治が認められています。政治や行政は、学問研究分野の人事については、干渉してはならないのです。

 「学術会議推薦者問題」は、菅政権が学問研究者の人事に干渉したから大問題なっているのですが、同政権は、これがなぜこんなに大問題になっているのかの真の意味を理解していなかったように思えます。安倍首相も、菅首相も、憲法の勉強が足りないのです。学問研究レベルまでの勉強はともかく、せめて学習レベルの勉強はしてほしいものです。

 菅首相をはじめとする菅政権の面々も、自民党の先生方も、「学問の自由」の意味をもう一度勉強してほしいのです。国民であるわれわれも、もう一度「学問」の意味を、そして、日本国憲法が「学問の自由」を憲法に態々一カ条を割いて謳っている意味を掘り下げてみなければなりません。

 そのため「註解日本国憲法」が、前記の通り、「學問の進歩は次の時代の共同の文化財となり、一般的敎養の水準を規定するものであって、その意味では文化の先驅的役割を果たすものであるから一切の隷属から解放されていなければならぬ」「學問は單に既存の知識を保存するに止まらず、常に新しい知識を開拓して行かなければならず、そのためには權威の強制よりも、自由な討議と研究に委ねるのが適當である」と述べているところを、首相も、国会議員も真摯な態度で受け止めてほしいのです。

 更に「學問上の進歩及び新發見は一般の常識的な世界觀からみれば奇異に感じられることが多く、常に世間の常識的な見方から反對され、場合によっては迫害されるのであるが、やがて眞理の力によって説得せずにはいなかったということが人類の歴史的體驗である以上、この歴史的な經驗を謙虚に尊重すべきである」と述べています。

 学問の自由を議論する立場の方は、熟読玩味する必要があります。少し長い文章ですが、これだけでも菅前首相に読んでほしいのです。

 学問は「文化の先驅的役割を果たすものであるから一切の隷属から解放されていなければならぬ」とは、学問研究の文化の先駆け、つまり、文化の先頭を走るものであるから、他から支配されたり、それに従わされたりしてはならないものということです。

 ですから、学問研究は、世間の常識や宗教の教義、政治的主義・主張などで制約してはならないものなのですこれらの権力が、学問研究に干渉したり、弾圧を掛けたりすることは、絶対にあってはならないのです。それが日本国憲法23条が「学問の自由は、これを保障する」と規定した趣旨・目的なのです。

 「學問上の進歩及び新發見は一般の常識的な世界觀からみれば奇異に感じられることが多く、常に世間の常識的な見方から反對され、場合によっては迫害されるのである」という歴史的な経験が学問の自由を憲法で保障しなければならないということを憲法制定権者に教えたのです。

 学問研究は世界中で、政権や世間や権力から迫害された歴史があるのです。「一時的に迫害されてもやがて、真理の力によって説得せざるを得なかった」という人類の歴史的体験があるのです。この歴史的な体験からすれば、学問研究の自由が、保障されなければならないものであることは、よく理解できます。

 学問の自由の保障は、人類の歴史的体験に基づく経験則なのです。ですから「この歴史的な經驗を謙虚に尊重すべき」という結論になるのです。  

 (拙著「新・憲法の心 第29巻 国民の権利及び義務〈その4〉」から一部抜粋)


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