〈義務付けながら柔軟対応をいう矛盾〉
しかし、そう述べるこの判決は、別のところで「国民の司法に対する理解や信頼は、ただ誰かが刑事裁判に参加して得られるものではない。国民誰しもが裁判員となる資格と可能性を有する制度としなければ実効性は保てない。辞退事由がない限り選任を拒絶できない制度とすることによって制度の目的を達し得る」という。
この判示は、そう簡単に辞退の自由を認めたら制度の目的を達しない、簡単に辞退を認めてはいけないと言っているのである。この理由付けは正に自家撞着の典型というべきものであろう。
本来人集めのために過料の制裁を課してまで国民に対し裁判員となることを義務付けている制度であるものを、辞退が柔軟にできる、いわば嫌だと言う人はならなくても済むから、その負担は合理的だというようなことは不合理そのものであろう。
この判決は、本件Aさんの急性ストレス障害は辞退事由の弾力的運用や心理手続上の工夫等で回避し得た可能性は否定し得ないと判示する。その判示は、そこに国としての不法行為責任を見出し得るとまでは断じていない。実際そこに国の不法行為責任を見出すことは容易ではあるまい。
〈国民は甘受、我慢すべきという姿勢〉
判決はさらにAさんの急性ストレス障害は、全ての回避措置を行使したとしても発症したかも知れないともいう。それでも判決は、そのような発症があっても国民の負担が合理的範囲を超えることを示すものとは断じ得ないという。その理由は示されていない。ただ、裁判員制度はそのように国民を痛めつけても実現しなければならない制度であると言っているわけである。
そうであれば、辞退について柔軟な態度をとっているから負担は合理的な範囲に止まっているとか、何も個別に「凄惨な写真を見せてもあなたは大丈夫ですか」などと一々聞くことはない、具合が悪くなってもそれは国民にとって甘受しなければならない、公務員災害補償制度を使って治療してもらえばよいだけのことになる。しかし、そう頭から言ったのでは明確に裁判員の職務は苦役だということになるから、この判決は長々と屁理屈を並べているだけである。
つまり、裁判員制度の実現という国家目的の達成のためには証拠を見て精神的に強い障害を負うことがあっても国民はそれを甘受、我慢すべきであり、傷害を負えば慰謝料までは支払えないけれども公務災害で癒してあげるから、心配しないで裁判員を務めて欲しい、戦時中に良く使われた滅私奉公、尽忠報国をしてほしいということである。