〈本末転倒の発想〉
前述のように、裁判員制度は真実の発見や法令の適正且つ公平な適用を直接目的とするものではなく、刑事訴訟において配慮されなければならない被告人の権利を無視している。
審議会最終意見は、裁判員制度は個々の被告人のためというよりは、国民一般にとって或いは裁判制度として重要な意義を有するが故に導入するものだから、被告人には裁判員制度の選択権がないと言うけれども、刑事裁判は本来被疑者、被告人の基本的人権擁護のための手続であり、それが被告人の利益より国民教育・意識改革優先だというのは、正に本末転倒であろう。
起訴状一本主義による予断排除の原則は、公判前整理手続の援用により既に消滅している。裁判所にとっては、被告人より大切なお客様である裁判員の負担軽減のために審理の迅速化が図られる。拙速化は免れない。何故に、国民の司法教育のために、被告人がその選択権もなしに裁判員裁判を受けなければならないのか。大久保元判事の言われるように、「惨憺たる結果を招来する」制度であると言わざるを得ない。そして、現にその兆候は見えている。
憲法違反の数多く存在するこの制度を運用に移し、具合が悪かったなら3年後に改めれば良いということでは、被告人や裁判員に選ばれた者は実験材料として使われているに等しく、その被害は取り返しのつかないものになる。
〈揺るぎない従来の裁判制度〉
私は、この裁判員制度は、現在の裁判制度が抱える前述の弊害に対する対処法とならないばかりではなく、むしろその弊害を抱えたまま、或いは拡大しつつ温存させることに貢献していると見る。
裁判員制度は一種の参審制であることは間違いない。裁判員は、種々の場面で素人としての悲しさから職業裁判官には従うこととなろう。裁判員法9条に違反するとして解任請求され、解任決定を受けることもある。
裁判所は、裁判員という一般市民の参加した裁判という一種のお墨付きを得たとして、この制度を用いることにより、従来の裁判制度自体をいささかも揺るぎがないものとして運営する恐れが大きい。
西野教授も前掲判例時報1874号14頁において触れているが、平良木教授の前掲論文(法曹時報53巻2号4頁)の、「(参審員は)職業裁判官のコントロール下にあるのであって、どのような裁判結果になるかは、職業裁判官の説得の努力いかんによるのである」との論述は、裁判員も含めて、参審員が単なるお飾りに過ぎないこと、お飾りでなければ困ることを自白しているようなものであり、語るに落ちるとは正にこのことを言うのであろう。しかし、それは実に正直に述べていると言える。
さらにいささか穿った見方かも知れないが、前述のように、先進国と言われる国の中で陪審制或いは参審制を採用していない国は我が国ぐらいだと言われる中で、これから国際連合安全保障理事会の常任理事国を目指す国として陪参審制がないのは格好がつかないという、いわゆる「普通の国」として常任理事国入りをするための体裁を整えるという意図があるのではなかろうか。