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〈死刑を絡めた裁判員制度の社説〉

 

 朝日新聞は2015年12月28日「裁判員裁判……死刑と向き合う機会に」と題する社説を掲載した。この社説については、私は以前小さく批判的意見を述べたことがあるけれども(「裁判員制度はなぜ続く」司法ウォッチ2016.4~)、その社説で主張されていることについては、大新聞の意見としての影響力の大きさからそのまま見過ごすべきではなく、やはり根本的に検討されるべきではないかと考え、改めてここに私見を述べることとした。
 
 その社説の要旨はつぎのとおりである。
 
 ● 死刑求刑事件について裁判員が判決を下すこともあるという仕組みから私たち国民は逃れるべきではない。
 ● 裁判員の心のケアを充実させる取り組みは欠かせない。
 ● 国家権力が裁き罰することができるのは主権者である国民の負託を受けているからだ。
 ● 刑罰のあり方を決めているのは国民であり、その究極の現れが死刑。
 ● 余りに多くの手続きを刑務官らに負わせ、大多数の国民の認識から遠ざけてきた。
 ● 死刑をやむを得ないとする人は約80%にのぼる。裁判員たちが苦しむのは「人の命を奪う」という死刑の本質に当事者として直面するから。
 ● 人を裁くという経験を通じ、死刑と向き合い、是非を考える、そういう機会に裁判員制度をしていくことが大切だろう。
 ● 裁判員の経験を共有できる仕組みが必要。
 ● 情報公開が欠かせない。
 ● 死刑を続けているのは先進国ではアメリカと日本だけだが、アメリカでは執行を遺族マスコミに公開している。日本では裁判官ですら知らない。
 ● 死刑囚の日常、死刑執行の順番の決め方も知らないで評議をしている。それで良いのかと市民が声を上げた。情報公開を法務省に求めている。これが市民感覚。
 ● 裁判員は与えられる事だけ知ればいいのかとの経験者の憤りを放置してはならない。

 

 この社説の意見は、元司法制度改革推進本部、裁判員制度・刑事検討会委員大出良知氏の意見(愛知学院大学宗教法制研究所紀要第52号、「死刑と裁判員裁判」)に類似する。

 

 

 〈社説への素朴な疑問〉

 
 その社説を読んで浮かぶ素朴な疑問はつぎのとおりである。

 
 ① そもそも死刑を是認するというのか。
 ② 裁判員制度は素人である一般市民を強制的に他の市民の生命、自由、財産等憲法上守られている国民の基本的人権を収奪する国家権力の行使に加担させる制度であることを認めるか。
 ③ それでも裁判員制度を是認する根拠は何か。
 ④ 裁判員制度の憲法適合性をどう考えるか。
 ⑤ 国家権力の行使としての裁判をし、市民を処罰することを認めた国民と裁判員となる国民とは同一性質のものと考えるのか。国家権力の行使者は一人一人の国民ではなく憲法上その総意によって代表とされた者だけではないのか。裁判員は国民の代表者か。
 ⑥ 死刑執行はくじで選ばれた国民が自らなすべきだ、或いは刑務官と共同してなすべきだというのか。
 ⑦ 死刑と向き合うためには何故裁判員にならなければならないか。
 ⑧ 死刑の情報公開を求めるのは、その制度の存否の議論に必要だと考えるからか。死刑は人が人を殺す行為であり、その殺人行為であるという本質的情報以外に何が何故必要か。
 ⑨ その議論をしている間は裁判員として死刑事件と対面し、判決をし、執行することは是認されるのか。
 ⑩ 死刑は公開されるべきだというのか。

 
 以前にも記したけれども、この社説は散漫に言葉を並べているので、本来であればこの社説を書いた論説委員に前記の質問をし、その回答を聞いてから論じたいのだが、そのような個別の回答を得ることは期待できることではないので、ここではその用いられている言葉から論じられていることを推測し、死刑の問題を中心に論ずることとしたい。



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