〈裁判員をくじで選任することの違憲性〉
弁護人が、繰り返し裁判員の選任手続と正規裁判官の任命手続の違いを問題視し、くじで選任された者が裁判担当者の地位に就くことは憲法80条1項の許容するものではないと述べていることは、最高裁が要約している国民の司法参加の許容問題とは全く別の問題なのであり、大法廷は、弁護人の上告趣意を、上告趣意として正しく捉え、その点についての判断を示すべきものであった。
裁判員法に定める裁判員は、弁護人も述べるように、一部の除外はあるけれども、評議において事実認定をし、有罪無罪の判断をし、有罪と判断された場合には死刑を含む量刑判断もなし得る権限を有する者である。それは正に裁判の核心部分を担当する非常勤の裁判担当者、憲法の定める裁判官である(前記大久保元裁判官の記述参照)。最高裁判所のホームページでは裁判員は非常勤の裁判所職員であると記載している。裁判員の職務が裁判であることは明らかであるから、裁判員は裁判を担当する非常勤裁判所職員、つまり非常勤裁判官であることを最高裁判所も自認しているということである。常勤か非常勤かは関係がない。被告人から見れば、弁護人も述べるように、裁判官も裁判員も自分を裁く者には違いがないからである。
そうであれば、裁判員法の定める裁判員という裁判担当者の選任方法、即ち「くじ」で選ぶ方式を採用するなどということは、憲法の全く容認していないものであることは明らかである。
〈憲法80条に定める選任方法の実質的意義〉
それでは何故に裁判担当者についてかかる選任方法は守られなければならないのか。その実質的理由は何か。
その点については、以前に、裁判を担当する者が主権者である国民の意思に基づいて選任されるべきであることを、憲法前文の権力の行使と国民の福利の享受に関連して論じた(司法ウォッチ2014.8.1~10.1)。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と憲法前文は記す。司法権も国家権力であるからその行使者は国民の代表者とみなされるものでなければならない。
最高裁は、憲法が国民の司法参加を認めているか否かの解釈を引き出すについて、憲法成立の際の議論、諸外国の例等を引き合いに出していわゆる複合的解釈手法(笹田栄司、重要判例解説平成24年度、ジュリスト1453号p10)を駆使しているけれども、それはまず結論ありきから出発して、その結論に理由を強引に後付けした牽強付会の軌跡に過ぎないものであって、憲法解釈の手法としては邪道に類するものであろう。
本来の憲法の解釈手法は、その憲法の依って立つ憲法原理、それを定めた憲法前文と憲法全体の構成、文理に基づくべきものである。
司法権という国民の生命・自由・財産に直接関係し、公正、公平、不羈独立を要求される、その担当者に対しては全人格的行為の要求される分野において、その権力を行使する者が、全国民から基本的にくじで選ぶことを正当化し得るなどと考えることは極めて異常なことであろう。民主主義と司法の独立性とは緊張関係にある。その民主主義と司法の独立性の確保という本来制度設計の困難な問題、兼子一教授のいわゆる民主司法のジレンマと言われる問題(「裁判法」p20)について、憲法は下級裁判所の裁判担当者について「最高裁判所の指名した者の名簿によって内閣でこれを任命する」という方式を選択、採用したものである。
この内閣の任命方式は、裁判担当者の地位の民主的正統性を保つ上では不可欠なことである。司法制度改革審議会の竹下会長代理は、第32回会議(2000年9月26日)の冒頭で「憲法は、一方で議院内閣制を前提として、この議院内閣制の下にある内閣の任命またはその前提として最高裁判所の指名というものを予定するというところに、司法という、立法、行政とは異なる統治作用の民主的正統性のぎりぎりの根拠を求めていると解されるわけです」と述べている。
それ故、仮に素人が裁判員という名の裁判担当者に就任することが有り得るとしても、この任命方式その他憲法80条の定める要件を満たさなければ、憲法の定める司法権行使の民主的正統性を満たしたとは言えないものとして違憲の存在と評さざるを得ないこととなる。いわゆる先進国の中には陪審または参審と称される国民の司法参加制度を持つ国もあるけれども、それは各国の歴史や国民感情、裁判についての国民の認識に大いに関係する,
いわば司法文化とも言うべきものであり、それらの国がかかる制度を採用しているからといって、わが国の憲法の解釈をそれらに符合させる必要性はない。
弁護人は、かかる論法は用いてはいないけれども、その任命制度の重要性を感知し強調して、前述の上告趣意に至ったものと解される。なお、憲法・法律に疎い素人が裁判担当者として、憲法76条3項に定めるところの、憲法および法律に従った裁判が可能であるなどということは万人の認め得ないことであろう。