〈諸外国でも批判がある制度〉
いわゆる先進国として称される多くの国には、陪審制、参審制という素人の裁判直接参加制度がある。
各制度が司法制度として採用されるに至った歴史的経緯は各国様々であり(清水真「陪審の量刑手続関与に関する一考察」刑事司法への市民参加175頁以下等)、また、陪審制には陪審制なりの問題が指摘されており(例えば、ジェローム・フランク「裁かれる裁判所」上下、古賀正義訳、弘文堂)、時代遅れの制度との鋭い批判もなされている(伊東乾「ニッポンの岐路 裁判員制度」102頁)。
ノルウェーでは陪審制から参審制に移行すべきではないかということが議論され(ジュリスト1196号94頁以下)、陪審制の母国ともいうべきイギリスにおいても、最終的には陪審制は殆ど利用されなくなるかも知れないとの見通しも述べられている(捧剛「イギリスにおける陪審制批判の系譜」前掲刑事司法への市民参加149頁)状況であり、それが望ましい制度と考えられているわけではない。
〈国民の司法参加、即民主的は飛躍〉
陪審制は民主主義に根差すかのように考えられがちではあるが、当初は11世紀のイングランド、ノルマン公による征服の後、国王裁判所が各地方を巡回して紛争を審理判断するために、地域ごとに名士を呼び出し、自らの体験、知識に応じて情報を提供させる機関、即ち証人的機関として始まり、種々の歴史的経緯を経て変容して来たものと言われており(前掲兼子23頁、前掲清水176頁)、民主主義国だから生じたものではない(「陪審制度はもともと専制君主の掌中にあった裁判制度を民衆の手に取り戻すという意図のもとに導入されたもの」との指摘(平良木登規男「参審制度導入のいくつかの問題点」(下)法曹時報53巻2号2頁)は正確ではない。)。
陪審制か参審制かという議論についても種々の議論があり定まってはいない(例えば、新堂幸司「司法改革の原点」26頁外)。日弁連は司法審に対し「司法参加の在り方としては陪審制しかない」と断言していたし、陪審制と事実認定の問題については、西野喜一教授が詳細に論じ、その制度の問題点を指摘している(西野「司法過程と裁判批判論」86頁)。
因みにその中で記されている映画「十二人の怒れる男たち」の受け止め方(同著93頁)は、私のそれに近い。いわば、陪参審制は欧米型の一種の司法文化と言うべきものであり、裁判制度として無条件に優れているなどとは言えないものである。
それ故、まず国民の司法参加が即民主的であり、陪参審制の採用へというような飛躍した議論ではなく、西野教授等も言われる憲法上の問題をクリアーして現在の裁判の抱える問題を根こそぎ検証し、その中で素人裁判官参加が望ましいことであるかどうかが改めて検討さるべきなのである。