司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 
 〈裁判関与が国民的基盤強化につながる根拠はない〉

 

 一般市民が裁判に関与することになった諸外国の歴史については先に概観した。しかし、その発端は極めて政治的なものであり、司法という公平、適正、独立を理念とする司法の在るべき姿とは相容れるものではない。民主的司法の旗手の如く思われ、裁判員制度反対者でも支持者がいる陪審制について、前述のように問題山積の遅れた裁判方式の一つと評されるのは理解し得ることである。

 

 つまり、司法は、本質的には、くじで無作為に選んだ一般市民を参加させるべき国家制度ではなく、国民の中から、その職に適する人格と能力とを備え、法についての広範な知識を有し、その実務の訓練を経た者をその担当者として選任することが望ましい制度として存在するのであり、前述のように一般市民の関与は各国の政治的状況によって真に政治的要請がある場合にその選択肢の一つとしては生じ得る性質のものである。それ故に、現にどの国にも裁判を担当する専門職が存在し、それが基本的に司法の職務を担当している。

 
 重複するが、一般市民を無作為に選んで裁判に関与させる仕組を採用し得る素地としては、前述のような、基本的に国民の側にかかる専門的裁判官の裁判に対する反発、不信が強く、国家的にそれを受け入れざるを得ないような政治的要請が存する場合ということになる。一般国民を裁判に関与させれば司法の国民的基盤の強化になるなどという根拠はどこにもない。司法の国民的基盤の強化は、司法が真に国民の信頼に応えられるものとなること以外にはない。

 
 今回の審議会の記述する統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し自らのうちに公共意識を醸成し公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていく場として司法を利用するなどということは、大凡司法の本質とは相容れないことである。

 
 国民参加によって司法の国民的基盤が強化し得るというのであれば、いっそ専門的裁判担当者を排除し一般市民が裁判の主体となる人民裁判が国民的基盤を強化し得る最善の方策ということになろう。しかし、今、日本の国民で、また他の近代文明の発達した国で、そのように考える国民は如何程いようか。たまたまネット検索で「人民裁判と裁判員制度の共通項」という論考を見つけた(香港:美朋有限公司・薫事長小島正憲)。小島氏は、裁判員制度に人民裁判の暗い影を見、実に説得力ある分かりやすい表現で裁判員制度の問題点を指摘している。

 

 

 〈強い裁判不信の事実と信頼できる裁判実現の確率が必要〉

 
 一般市民の裁判参加は、専門的裁判担当者の裁判に対する強い不信、反発という社会的事実が存し、その一般市民の真の主体的参加によって国民に信頼される裁判が実現し得る確率が社会の情況として存する場合には、それを立法事実として初めて実現が可能となり、制度としても容認されることになる。

 
 そのような立法事実の存在しない状況下で、前述のように上から目線の公共意識の醸成の場として制度化されたものは、前述の意識調査の結果が示すように多くの国民から嫌われ敬遠され、種々の問題を惹き起こすことになるのは必定なのである。

 
 樹木が毎年美しい花を咲かせる、我々の食事を支える植物が豊かに稔るには、まずその土壌がそれらの植物に適したものでなければならない。土壌の悪いところに植樹し、種を蒔いても、その植物は育たず、いずれ枯れる。

 
 司法の民主化、国民的基盤の強化というキャッチフレーズだけでは、それこそ笛吹けど踊らずになろう。

 
 私は、現官僚裁判官制度を必ずしも良しとしない。より良い司法の実現には現司法制度の問題点をそれこそ国民目線で洗い出し、今後、専門的裁判担当者をどのように育てるか、法曹一元の採用、適切な一般市民・諸種の専門家の裁判担当者としての確保、そのための非常勤裁判官制の採用等裁判担当者をどのように定めるか、最高裁判所裁判官の具体的人選方法をどうするか、裁判官の人事のあるべき形は何か、現行の中央集権的な司法行政に問題はないかなど、公平・適正・独立を全うし得る裁判の実現に向けて、根本から望ましい司法制度の研究・実現に努力すべきである。思い付きの妥協の産物である裁判員制度は即刻廃止されるべきである。



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