〈国策を担おうとする政治的意見〉
同判決は、末尾において、「裁判員制度は司法の国民的基盤の強化を目的とするものであるが、それは国民の視点や感覚と法曹の専門性とが交流することによって相互の理解を深め、それぞれの長所が生かされるような刑事裁判の実現を目指すものということができる・・・長期的視点に立った努力の積み重ねによって我が国の実情に最も適した国民の司法参加の制度を実現していくことができるものと考えられる。」と判示する。
この判示は上告趣意に対する判示ではない。正に国策である裁判員制度推進の一翼を担おうとする極めて政治的発言である。ここまで判示されると、コリンP.A.ジョーンズ氏がその著書「アメリカ人弁護士が見た裁判員制度」(平凡社新書)において記している「裁判員制度は誰のものかとの問いかけに対する答えは、まずは『裁判官のための制度である』が答えになる」(p210)、「裁判員制度は裁判所に対する批判をなくすためのもの」(p212)との意見は真実であり、それ故に裁判所は石にかじりついてでもこの制度を手放したくないと本当に思っているのではないかと邪推したくなる。
裁判員法1条は、同法の趣旨として、裁判員裁判は「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」と記す。しかし、この裁判員制度に関する最高裁の態度は正に「司法から国民を離反させ、司法に対する国民の不信を増大させることに資する」ものであることは間違いがない。
前掲瀬木氏著書に「現在では、制度に表立って批判したりしたらとても裁判所にはいられないような雰囲気となっている。こうした無言の統制の強力なことについては、弁護士会や大学など比較にならない(共産主義社会における統制と自由主義社会における統制くらいの大きな違いがある)。」と記述する(p184)。
この記述は、こと裁判員制度に関しては、裁判官は憲法76条3項を遵守することが困難な状況にあるということを意味する。司法にとってこれほど危険な状態はあるであろうか。
〈大法廷判決が示した危機的状況〉
この最高裁大法廷判決について、憲法学者や、今なお裁判員制度推進の立場をとり続けている日弁連は、どのように評価するであろうか。私のこの論考が私の大きな考え違いであり、この最高裁大法廷のとった行為は何ら問題にならないというのであれば、是非その説得力ある根拠を聞かせて欲しい。
この稿を書き終えるころ、私の地元の河北新報に五野井郁夫氏(高千穂大准教授)の「民主主義を揺るがす秘密保護法」と題する論考が掲載された。その中に、「この息苦しい法律が成立した現在、わたしたちは民意をどう表現してゆけるのか。じつはまだ方法はある。まず違憲立法審査権によって本法が憲法違反にあたることを司法に問うことができる」という記述を見た。
私も、裁判員制度に関する一連の最高裁判決を知らなければ、五野井氏と同じようなことを書いたかも知れない。しかし、私はこの大法廷判決の全体像を見て完全に叩きのめされてしまっているので、この五野井氏の言うような楽観論を述べる気には全くならない。最高裁が五野井氏のこのような期待に真に応えられるものとなることを念ずるのみである。
私は、この大法廷判決の持つ危険性については、マスコミはいくら大々的に取り上げても取り上げ過ぎることはないと思っている。それは日本の司法を健全な方向に向かわせるためには絶対に必要なことと信じるからである。