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 〈批判すべき最高裁大法廷判決〉
 

 すべての最高裁大法廷判決に当たってはいないので、その評価はできないけれども、非力ながらこれまで裁判員制度の問題について考えてきた者として、やはり2011年11月16日、最高裁大法廷が15人の裁判官の完全一致で下した裁判員制度に関する判決ほど体制的であることを露骨に示したものはないのではないかと思う。

 その理由は、私がこれまで著したもの(「裁判員制度はなぜ続く」第三章以下。)に詳細に記しているのでここで繰り返すことは避けたいけれども、一点だけ繰り返して述べたいことがある。

 同判決がその判決理由末尾に示した「裁判員制度は司法の国民的基盤の強化を目的とするものであるが、それは国民の視点や感覚と法曹の専門性とが交流することによって相互の理解を深め、それぞれの長所が生かされるような刑事裁判の実現を目指すものということができる……長期的視点に立った努力の積み重ねによって我が国の実情に最も適した国民の司法参加の制度を実現していくことができるものと考えられる」との表現は、判決理由の一部の体裁はとっているけれども、「だから裁判員制度は合憲なのだ」という、いわゆる結論を導く理由の記載にはなっていない。裁判員制度を導いた司法制度改革という国策、体制への迎合としての表現でしかないことは明らかである。

 判決の最も重要な判断基準外の基準を持ち出して判決がその結論を正当化しようとする態度は、国民の人権を二の次とするものであって、国家を誤った方向に導くものである。

 この判決を批判せずに、また私の指摘してきた問題に触れることなく、この判決を支持する意見も見られる(柳瀬昇「裁判員制度の憲法適合性」日本法学82号)。西野喜一「さらば裁判員制度」、大久保太郎「裁判員制度の落日」(判例時報2312、2313)を除いては、多くは沈黙を守っている。

 「愛の反対は憎しみではなく無関心です」という言葉がある(エリー・ヴィーゼル)。人間は幸か不幸か忘れる動物である。忘れなければ耐えられないということもあろう。しかし、その言葉どおりに忘れっぱなしにする、関心を示さない態度は、守られるべき至上の価値、人間尊重の精神に背くことになる。

 今は、刑事裁判に関する新聞記事の中で「裁判員裁判によって」という言葉が問題意識を感じさせることなく繰り返し用いられている状態である。

 被告人の裁判を受ける権利、国民の基本的人権に関わるこの制度については、国民一人一人が関心を示すべきだし、また、情報発信力があり正しい情報を発信すべきメディア、そして基本的人権の擁護と社会正義の実現を目指す弁護士の団体・日弁連は、この問題に無関心でいることは許されない。


 〈イラン女性弁護士の力強い言葉〉 

 ここで再び冒頭で述べたナスリンさんに戻ろう。

 ナスリンさんは獄中から世界中の支援者に向けてアムネスティ・インターナショナルを通して次のように述べている。

 「私には不正な状況を前にして沈黙という選択肢はない。……獄中で耐えること以上に社会の不正にあまんじることの方が私には耐え難いのです。」と。

 なんと強い正義感であり、人間愛であろうか。我が国で説かれている正義感や人間愛は、置かれている社会の状況が異なるとはいえ、そのナスリンさんの説く力強さは私を含めて無いように思う。同じ弁護士の端くれとして、その爪の垢ほどでも煎じて飲んで、この国がこのまま暗い淵に突き進むのではなく、金子みすゞではないが、些かでも明るい方に向かうように微力を尽くさなければと思っている。



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